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グローバルもいいけど、ちゃんと探せば日本もまだまだ面白いと思うよ

#ふぁぼった人との出会いについて覚えてる限り書く

      2015/07/13


#ふぁぼった人との出会いについて覚えてる限り書く

Twitterで流行っているこのタグ。

内容は文字通り出会いについて語るという内輪ネタ丸出しのタグ。


 

このタグの何が面白いかというと140字からタグとIDで文字数が引かれて100字ちょっとでその人との出会いを語らなければならないという縛り。 出会いに焦点を当てると非常に断片的な物語になる。 その断片は小説で言えば一段落にも満たない文章でしかなく、断片同士を繋げるには膨大な中間部分が必要となる。

 

例えばあるヲタクとヲタクの出会いに僕の名前が出てくるとする。

具体的にはこうだ。

 

超なつかしー

 

僕自身言われて思い出すレベルの内容(僕自身は特にこの時に初対面の人がいない)だが、誰かの話では開港祭が始まりになっている。 物語としてはその後も関係が何かしら続くはずだが、お題と文字数の関係上出会いの瞬間だけをピックアップして語られる。

すると思うわけだ。 一期一会だのなんだのと。

 

この2人の関係はこの時が始まりであり、当時の2人の共通の知り合いとして僕がいる。

普通の人ならこれでいいのだ。 そこに一期一会があり、その一期一会を成就させた人物として自分の存在の証として認めてよろしい。 これが恋人だったら恋のキューピッドであろう。

 

しかしこのタグをよくよく調べてみると

9割方ヲタクのツイートである。

 

このタグで語られる多くはヲタク同士の出会いであり、ロマンも何もない。

「でゅふw拙者は◯◯でござるw✕✕ちゃん推しでござるw」

の引き金になったことが何の名誉になるのだろうか。

 

しかもである、こいつらの出会いのほとんどが「ライブ」か「コンカフェ」。 他にすることねぇのかよ!

 

極稀に「カラオケオフで」とか書かれていて、どう考えてもヲタク臭しかしないこんな出会いにすら希少価値があるように感じてしまう。

 

要は僕がいなくても確実にこの2人は別の機会で出会っている可能性が高い。

 

何が言いたいのかというと、普通の人であれば自分が引き金となった一期一会の物語を楽しむタグであるが、どうせなんだかんだで出会うであろう代替可能なヲタクの出会いの一体何が面白いのかという話。

 

「私には大学の友達、バイト先の知り合い、野外フェスで会った人たち、被災地ボランティアで出会った人たちがいて…」

なんて交流のジャンルに幅があるならわかる。

野外フェスとバイト先の知り合いは明確に断絶された空間である。 「私」のバイト先の知り合いが、「私」と野外フェスで会った人たちと知り合うのはまさに一期一会である。 この2つを行き来するには同じバイトで野外フェスが好きなこの「私」を介さなければ出会う可能性が低いと言える。

だから出会いの元を辿って行くとルーツの違う背景が「私」を媒介に交差する時点に辿り着く。 それが面白いはずなのだ。その偶然が物語なのだ。

 

しかしヲタクの場合、ルーツがほぼ同じなのである。

前述の例だとバイトと野外フェスに接点はない。 野外フェスのためにバイトするとかはあるだろうが、一般的にバイトと野外フェスを同視することはない。

だが「(アイドルの)ライブ」と「コンカフェ」は同視することが容易である。 あぁこいつはヲタクだぞ、と。

 

だからたまに「どこで出会ったか覚えてない」ということが起きる。 割と何度も会っていて、その最初の出会いはここ数年レベルのヲタク同士ですら、である。

辿るルーツ自体は最初から交差している、あるいは同一、もしくは接触寸前のルーツ同士だから交差する時点が非常にわかりにくい。 だから忘れやすいし、僕自身初対面の出来事を忘れられていて結構後の出来事を初対面として語られたりもした。

 

要は出会いにものすごく奇跡感もなければ、内容もデュフ感しかなくて、しかもそんな山も谷もない陰のお話は普通面白くないのだ。普通は。

 

結局ヲタクは出会いのきっかけよりも、出会いのきっかけになった時間と空間(イベントだったり)を懐かしんでいるだけなのではないだろうか。

いわゆる「リア友」とか「リアルでの知り合い」にはそれを懐かしませるツールはある。 Facebookには自分の年代記みたいなスタイルで過去を振り返れるし、出身校や所属団体などから過去を辿ることができる。 mixiではコミュニティ機能というのがあった。

 

歴史というのは後学のために取捨選択される。 膨大な何千年という歴史が必要な情報だけ取捨選択されて数百ページの「歴史の教科書」 となるように、役に立つ歴史しか選ばれない。 個人の経歴という小さな歴史ですら必要部分を取捨選択する。

 

ヲタクの歩みや流れが社会の役に立つかと問われれば役に立たない。 社会に限らずほぼ何の役にも立たない。

世間一般的には「チャペ」だろうが「アペ」だろうがどうでも良いのだ。

しかし自分が時間と金を湯水のように注ぎ込んだあの日々は残らない。 なぜなら何の役にも立たないからだ。

自分を中心とした一部の人間の記憶に残り続けて、MIXやらそのへんの文化だけ口伝されて、でもそれも徐々に改良されたり消えたりしていって、死ぬとか忘れるとかで記憶がこの世から消えた瞬間あの熱中はなかったことになる。

 

記憶レベルの情報ほど不確かなものはなく、記憶レベルの情報は当然にいつか忘れ去られるものである。 口伝の秘術の存在を普段お目にかからないようなものだ。 そしてそれは誰かと誰かの出会いとかいう個人レベルのこと以外にも当てはまる。

「Tシャツに本人の顔をプリントしたこくりゅう界隈なるものがあった(今もあるのかな?)」

「平野綾のライブに金属バットを持って殴りに行くとリプライで宣言した事件があった」

「アイドルに大して思ってもいないくせに好き好き言う文化ができた」

 

Twitterでの出来事は流れてしまう。 twilogを使ってもそれらは後から見ると脈絡不明の文章の羅列でしかない。 さらにそれらのスクラップのような文字情報を現象として分類できるのは本人始め関連した人しかいない。

何十万円使おうが何年通おうがヲタクの熱中なんてその程度のことでしかない。故にヲタクは虚しい。

 

「その程度のこと」に収束されるヲタクのルーツも、それぞれが微妙な差異を持っており、それがほんの僅かなきっかけ(人物・空間・時間)で交差する。 それを懐かしむツールとしての「#ふぁぼった人との出会いについて覚えてる限り書く」。 きっとヲタクの歴史や系譜が語られる場があまりにも少ないからこそ、物語に起伏がなくて陰のお話でも面白いのだろう。そう思って僕はしみじみとTLを追っている。

 

それにしてもホントにお前ら「ライブ」と「コンカフェ」しか行かないんだなぁ… 

関係ないけど、やっぱ「だ・である」調は楽。 あとアイキャッチ画像のげんしけんも関係なさすぎた。

 - 雑記