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吾輩は彼氏である

      2015/07/13


男性関係の発覚という爆弾を常に抱え続けなければならないからアイドルはつらい。

なんでアイドルが付き合っててはいけないのか。ここは永遠の謎である。 むしろアイドルに彼氏がいることは、この世の「バレなければいいじゃん」ランキングトップ3に入るくらい当然のことである。議員の汚職なんかよりよっぽど被害がなく、道義に反するものではない。

とりあえずアイドルが付き合ってるのは全然いいと思う。でもやっぱりバレてはいけない。


叩きたければ叩けばいいじゃないコラム 第二回:アイドルの彼氏になろう。

 

さて、タイトルはちょっと扇動的だが、別にアイドルの彼氏になるノウハウを書いたりするわけではない。

むしろそんなノウハウは僕の方が知りたいわけで…。

 

要は「アイドルの彼氏を名乗ること」についてちょっと考えたいと思う、という記事。

 

1,悪魔の証明

 

割と一般化したこの言葉。

竜騎士07のうみねこのなく頃にでは

誰か別の人間がいた可能性がある!「ない」ことは証明できない!(ドヤッ

 みたいな感じの表現が見えて、ちょっと勘違いされている概念である。

 

不存在の証明ができない、までは正しい。 だから勝利、にはつながらない。

 

「悪魔はいるか/いないか」で考えるからわかりにくくなるが、

 

A「Bは俺に借金がある!借金が「ない」ことは証明できない!はい俺債権者!ドヤッ!」

 

 

とはならないと考えればわかりやすい。

こんな意味不明なことが起こってはいけないという喩え話が悪魔の証明であり、 要は「ない」ことの証明はする必要がなく、先に「ある」側が証明しなければいけない。 というもの。

 

A:ある側→「ある」ことを証明しなければならない B:ない側→「ない」ことは証明できないので、 「ある」という証明を待てばいい。

つまりスタート時点では、ない側優勢。 ただそれだけ。

 

ヲタク絡みで悪魔の証明と言えば、「アイドルに彼氏がいるか/いないか」「アイドルに男性経験があるか/ないか」である。 ともすれば奴らは永遠にこの2択に囚われ続けるのだ。

 

アイドル「男の人と遊んだこともなくて〜」

 

こんなに可愛くて! 僕みたいなキモヲタにも優しくて! おててもすごく暖かい子が!

である。

感覚的にはそんなわけがないと思うわけだが、それは証明にならない。 ここで仮に論争が起きるとすればこうだ。

アイドル「男の人と遊んだことは”ない”」 僕「でもこんなに可愛くて優しいんだから男性経験が”ある”に決まってる!」

アイドル: ない側 僕:ある側→立証の必要性

 

つまりアイドル側は一言「男性経験ありません♡」って言えば後は立証の義務などなく、立証のできないヲタクは泣きながらお金を落とし続けるというのが現状。 だからこそ一度スキャンダルが発覚すればここぞとばかりに炎上する。

それまで虐げられてきた農民が革命を起こすようなものである。

男性経験があるならわざわざ嘘つかずにその話題に触れなければいいじゃん、とは思うけど。

 

2,吾輩は彼氏である

 

悪魔の証明について理解したうえで、とあるヲタクAがとあるアイドルBの彼氏を名乗り始めたとする。

 

ヲタクA「俺はBちゃんの彼氏だ!」

 

ここで悪魔の証明について勘違いがあると厄介である。

 

ヲタクA「俺はBちゃんの彼氏だ!彼氏じゃないこと(彼氏としての証拠が「ない」こと)を証明するのは不可能!はい、悪魔の証明!俺彼氏。」

 

となってしまう。 少なくともこんな馬鹿と付き合ってはいけない。

ましてやアイドルの彼氏はわざわざチケット代を払ってライブに来ることはないし、彼氏なら必死に特典会で握手する必要はない

 

そもそもBに彼氏ではない、と言われたらそれまでなのだ。 他にもLINEとかのツールを調べ上げれば、興信所を使えば、 いくらでも彼氏ではないことの証明はできる。

 

なおこのヲタクAが本気でそう思い込んでいるのか、あるいはネタで言っているのかはわからない(定義してないから)。

 

3,疑似恋愛のゲーム

 

「今のアイドルブームは疑似恋愛ゲームである」。

アイドル文化ほど一般人の理解が追いついていない文化はないだろう。

二次元は歪み過ぎててわかりやすい。 「そうか、あの人は二次元しか愛せないんだ。」 そういう性癖の一種だと考えればまとまる。現実において二次元を供給する方法はあまりない。 二次元と現実のどちらが良いかは別の問題である。

しかしアイドルは絶妙な歪み方なので理解が難しい。 理想的には現実の女の子が好きなら普通に恋愛すればいいわけだし、普通に恋愛をする能力がないなら風俗にいけばいい。

代替手段はいくらでもあるのに何故中途半端に握手なんだ?

そこが理解不能なのだろう。 一番の魅力はライブだの色々意見はあるだろうが、少なからず疑似恋愛という要素は間違いなくある。 同じ曲同じ衣装同じパフォーマンスだったら可愛いほうが良い。ほぼ100%がこの選択だろう。 でも別の曲別の衣装別のパフォーマンスだったら必ずしも可愛い方に行くかはわからない。そういう意味で可愛い(異性としての理想)はほぼ共通の尺度であり、異性として見る以上恋愛要素は存在する。

可愛い子(理想)を並べ、握手等を繰り返し、関係性を深める。そういう意味では恋愛に近いもの、つまり擬似的な恋愛なのだ。一理ある。

しかしこの分析は大事なところを見落としている。

彼氏/彼女になる前も後も「恋愛」であるということである。 世間一般にはどうでもよさそうな区別であるが、アイドル文化においてこれほど大きな区切りはないのだ。

 

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アイドルと彼氏の構造で忘れてはならないのがガチ恋。 みんながみんなガチ恋を嫌いなわけではないけど、好かれることはまずない。

そもそもガチ恋にとってアイドルというゲームのゴールは「彼氏になる」ことである。 彼氏になった後はゲームではなく、擬似でない通常の恋愛が始まる。

これは不健全な楽しみ方はない。 疑似恋愛を楽しむゲームの中で、ゲーム(疑似恋愛)をやめること(本当の恋愛)を目指してゲームをしている人がいる。 その構造が気持ち悪いのだ。 みんなが甲子園を目指して日々練習しているのに、「甲子園に行けば野球やめられる。だから練習している。」と言っているようなものだ。しかも人一倍練習に打ち込む。野球を辞めるために。この様子が不可解なのではないだろうか。

要はアイドルヲタクはアイドル・アイドル文化が好きでそれを楽しんでいるのに、ガチ恋はアイドルが好きなわけじゃなくてその子が好きなのだ。それはヲタクでなくただの恋愛感情にすぎない。 もうヲタクとして活動してない。アイドルを純粋に楽しんでない。握手会も好感度を上げるために利用しているにすぎない。ように見える。

そこが無理な人には無理。 一度そう思ってしまうと何もかもが悪く見えてしまうのが人間なのである。

 

5,ボランティア

 

近年は「学校が社会貢献している」というアピールのために生徒を使役しているようにしか見えない(主観)ものか、「ボランティアしているワタシ」という自己完結型自己実現のようにしか見えない(主観)もののための道具になりがちなボランティア。

歴史を辿れば十字軍や騎士団まで遡る。

ボランティア:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2

 

本来は無償の奉仕活動であるボランティアが自己実現の場として機能しているという。

(神の意思であれ社会であれ)「奉仕」活動である。仕える行為のどこに「自己実現」があるのだろうか。 奉仕から想像されるのはむしろ「自己の埋没」じゃないだろうか。奉仕する対象が存在して初めて活動が成り立つ、自立性のなさを感じさせる。

wikipediaによるとボランティアには4つの要素が原則として存在する。 自発性、無償性、利他性、先駆性である。

それぞれの要素が絡み合ってると思うが、主に自発性が過剰解釈されて自己実現になったのだろう。

お金も入らない、自分の生活が豊かになるわけでもない、何かがもらえるわけでもない。そんなメリットのない活動を「自発的に」行うという、利潤に関する論理崩壊が逆に自発的という要素を強調する。

確かにお金がもらえるならボランティアをする理屈はわかる。 何も得られないからこそそこに自発性が強調され、ひいては自己実現と解釈されるのだ。 多分特定の団体を媒介としないのも自己実現的なのだろう。

先駆性というのは制度がカバーできない部分を補うという意味である。

 

ボランティアについて説明したが、要するに以下の要件である

①特に得られるものがないのに(無償性) ②誰もやらないようなことを(先駆性) ③自分以外のもののために(利他性) ④進んで行う(自発性)

である。

③の利他性は①の無償性が前提と言えるだろう。 有償なら利他的とは言えないからである。 ついでに②の先駆性も若干だが①の無償性に付随する。有償なら誰かがやるからである。 ただしこの先駆性はすでに社会的な活動をしている存在(行政とか)を前提に定義されているから、無償なくしてとまではいかないだろう。

以上を踏まえると無償で先駆的でかつ他者のための自発的な活動がボランティアの根幹である。

神のため、社会のためであれ自分以外の何かのために無償で先駆的な活動を自発的に行うからボランティアだとするならば昨今のボランティアは利己的なボランティアが多いだろう。

就活のアピールのため、学校の社会貢献アピールのため、自己実現のためのボランティアが多いのが現状である。 やっぱりそういう活動は違和感を持たれるらしく、叩かれる対象にはなっている。

自己実現性というのは悟りのようなものなんじゃないかと思う。 つまりボランティアに従事しているうちにそれを自分の役割だと悟る。それを自己実現と表現しているだけで、悪い言い方をすれば「(一見)埋没している自分に自己を見出す」ということである。

 

まとめると

無償性→利他性を担保する。ボランティアの根幹的要素。 先駆性→無償性によって一部担保される。 利他性→無償性によって大分担保されるが、この部分がなければボランティアにならない(後述) 自発性→ボランティアの根幹的要素。

自己実現性→「(一見)自己の埋没」が前提となり、後に発覚する要素である。ボランティアの要素というより、ボランティアによって副次的に得られる可能性がある要素である。

こう考えると前半4要素によってボランティアが成立し、そのボランティアの中で自己実現性が発生する場合がある。 論理的には自己実現性が先に来ると利他的ではなくなる気がする。

 

 

6,吾輩は彼氏である3

 

ボランティアの要素を踏まえて考えると、ヲタクが理解されないことの一つに無償性がある。

「ヲタクなんかして何の意味があるんだ?」

多くの人がこの疑問を持つ。 回収の見込みのない消費活動を行うのだ。無償どころかマイナスである。 逆に言えば、何か社会的に認められるメリットがあればヲタクではないとも言える。それは有益な活動である。

 

そしてもう一つ奇妙なのは自発性である。

何のメリットもないこの活動にお金を投じ、時間を消費して参加し、挙句「楽しい」とまで言い始めるのだ。

奇妙にも奇妙だ。

 

楽しみを見出したら無償ではなくなるのではという気がしなくもないが、そしたらボランティアだって自己実現を得られる以上無償ではなくなってしまう。 無償とは物理的・金銭的利益の放棄と考えるべきだろう。

 

無償(どころかマイナス)にして自発的。 解釈次第では先駆的ですらある。わざわざこんな隙間産業にのめり込むのだ。先駆的じゃなくて一体何なのか。

ここに利他性があればヲタクはボランティアの要素を表面上満たすのだが、さすがに利他的とは言いにくい。

無償とは言え楽しむために行っているのだ。「楽しむ」という動機達成の利益の主体は自分である以上利他的とは言えない。

 

ここまでくると「ヲタクってほぼボランティアじゃん!」となってしまいそうだが、利他性がないから完全に別物である。 水(H2O)からOがなくなった水素(H2)を「ほぼ水じゃん!」っていうようなものである。

無償・先駆的・自発的な非利他的な行為としては反社会的行為もそうだろう。 「じゃあヲタクってほぼ反社会的行為じゃん…」って言われるとつらい。 あれだよ…。化学で例えるならシストランス体みたいなものだよ…!

ただ、ボランティアも反社会的行為もヲタクも似たような要素を持つ。 本当にざっくりと不明確な分類をするなら「論理を越えた行為」で分類できるだろう。

 

僕が批判する「自己実現のためのボランティア」というのは、ドルヲタで例えるならまさにガチ恋だろう。 (明確な利益でなく、取得可能かは曖昧だが)明らかに明確な自己利益を目指している。 利益が明確な以上それは「論理を越えた行為」ではない。論理の範疇内である。

ここまで書いておいて申し訳ないのだが、「アイドルにガチで恋しちゃった人」と一般的に言う「ガチ恋」は区別しておいて欲しい。

前者が目的意識を持って行動し始めると後者になる、くらいでいいと思うけど。 恋しちゃうのはしょうがない。大切なのは自制である。

 

7. ゲーム

 

突然だがゲームとは一体何か。

ゲームという言葉が乱発されすぎてよくわからなくなっているが、ゲームにもボランティアと同様に構成要素が存在する。

フランスのロジェ・カイヨワという人が提唱したもので

競争、運、模擬、めまい

がゲームの主要4要素である。

 

競争や運はわかりやすい。 競争:スコアをつけた瞬間何もかもが競争要素を持つことでゲームになって、ゲームのための課金すらゲームになりうるという時代である。 もちろん数値以外にも競争であればなんでもいい。 僕がソシャゲに対戦要素を要求する理由はこの要素が理由である。一人でパズドラやって数値を上げてることの何が楽しいのか。

運:古代から続くギャンブルが代表的。運というと何かアレだけど、自分の思い通りにならない領域だと考えればいい。将棋で例えたら相手の指す手はコントロールできない、という感じ。

模擬とはざっくり言って役割である。 鬼ごっこに鬼がいるように、役割が与えられることでゲーム性が増す。 ロールプレイングゲームとはまさにこれである。自分が勇者を操作することで擬似的に勇者という役割を得るのだ。 プレイヤーを提督とかそういう扱いをするのも同様である。 しっくり来ない、実感できない人もいると思うが、ゲームが物語や設定を持つ場合はこの要素がないと崩壊する。 例えば全く説明のないキャラを操作してるとゲームに没頭できなくなる。 「え?なんでこいつが魔王を倒しに行くの?こいつの目的は何?こいつ勇者なの?なんで魔法使えるの?」 「え?なんでこいつの周りに艦船と同じ名前の女の子が集まってくるの?女の子って普通は集まってこないものなんだよ?」  こうなる。ただしパズルや格ゲー、音ゲーなどの極め系のゲームにはあまり必要ない。ほとんど競争とめまいに極振りされているからである。

めまいは非常にわかりにくい。 精神や感情の部分であり、トリップとかそういうやつ。「やべー超楽しー」みたいな感じ(ボキャ貧感) 例えばゲームに没頭したのち分析する。すると「このゲームは運に偏った競争要素が強い。また自分がゲームの世界の住人だという設定がより没頭させる。」とか分析わけだ。 しかし最初に没頭した時はそんなことを論理的に解釈しているわけがない。その理解不能な熱中がめまいだろう。 かと言って理解したあとも楽しい物は楽しいわけで、めまいの要素は続きうる。 必ずしも西田幾多郎の善の研究のあれ(名前忘れた。なんたら的感動みたいなやつ)とは言いがたい。 「競争と運と模擬の要素があっても楽しくなければゲームじゃないよね」 と考えるとわかりやすいのではないだろうか。

 

これがゲームの要素である。 言葉を広く解釈しているので厳格なものではないだろうが、大体こんな感じである。

 

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アイドルは疑似恋愛ゲームとする。

これは先ほど述べたのだが、アイドルのゲーム要素を考えようと思う。

 

・競争

ここがわかりにくいから「アイドルがゲーム?」となる。 しかし競争を「優劣をつける」と考えた瞬間にアイドル現場は競争の場だとわかる。 古参、推され、強ヲタ。アイドル現場は競争要素が多い。むしろヲタクはやたら優劣を付けたがる。 ヲタク自体が劣なのに、

 

・運

アイドルの感情や運営の戦略は自分のコントロール外である。 しかもコンカフェなんて「キャストがこっちに来てくれるか」という原始的かつ究極的運要素を秘めている。「わしの一筒」レベルの運要素だろう。

 

・めまい

先にこちらから説明するが、アイドル現場は楽しいよな? ライブも接触も楽しい。駆け巡る脳内物質…!ほらめまいじゃん?

こういう強引な説明を日常でもやってるから説得力にかける。

 

・模擬

ここが「アイドルは疑似恋愛ゲーム」の肝である。 前述したように夫も彼氏も片思いも「恋愛」(夫は怪しい?)であるが、どれにしろ役割である。 このうちの何かの役割を得るから疑似恋愛ゲームなのである。 (そもそも冷静に考えれば「模擬」という要素の時点で「擬似」の恋愛であることは確定している)

夫はさすがにきつい。何故別居しているのか。何故妻がライブに出ているのか。何故俺は妻と握手するために金を払っているのか。「ジャージャー」とか言ってたら結婚生活に支障を来すのではないか。 つまり「模擬性の設定ミス」である。 清竜人25に任せよう。

片思いの役割を取ればガチ恋となる。 しかしガチ恋が不健全な形だというのは前述した通りである。

つまり、アイドル疑似恋愛ゲームにおけるプレイヤーの役割は「彼氏」あるいは「恋人」と考えるのが妥当である。

 

最初に述べた「俺は◯◯ちゃんの彼氏」であるというヲタク。 消去法に見えるが、奇妙なことに彼こそがアイドル疑似恋愛ゲームの体現者なのではないだろうか。

 

 

・彼氏

 

自分がアイドルの彼氏を名乗る、演じるという楽しみ方(以下擬似彼氏)が非常に理にかなっていて健全な楽しみ方だということを提唱したい。

ガチ恋を煽る商法(CD何百枚購入で○○)というやり方は苦しい。 そんな金ないと言いながら捻出することを強いられる。 まるでその方法でしか楽しめないようなやり方だし、結局そのヲタクはすり減って終わるか万が一ガチ恋が成就しても結局は現場から消える。 ヲタクを消耗品扱いした商法は不健全以外の何者でもない。

加えてガチ恋というのは楽しみの起点がアイドル側にある。 アイドルの彼氏になるにはアイドルに好かれなければならない。 その場合得点を稼ぐために接触し、失点は防がなければならない。 だからガチ恋煽り商法でも相手を喜ばせるために甘受しなければならなくなるし、 そもそもこんな心理的制限を受けたヲタクが十分に楽しめるわけがないのだ。

 

対して擬似彼氏というのは非常に健全である。 まず「自分が」彼氏を演じる、名乗る、という点でガチ恋とは一線を画す。 楽しみ方の起点が自分にある時点でその楽しみ方は自分の裁量で決められる。 CD何百枚という法外な商法も、「いや実際俺は彼氏じゃないから」で流せばいい。そして自分が満足できる分のCDだけ買って特典会に参加すればいい。 そして特典会に参加した時だけ彼氏モードになる。 相手がどう思っていようが、自分が彼氏だと言えばその時点で擬似彼氏なのだ。

不要な強いられは回避し、行使できる権利は最大限に行使して最大限効率的に楽しむ。 本来消費者にはこれくらいの権利はあるのだ。

もちろん彼氏を名乗る必要はない。なぜならアイドルの彼氏を名乗るのはダサすぎるから でもそのアイドルが僅かにでも恋愛対象に入るのであれば擬似彼氏になる方が「最大限」楽しめるはずである。 ヲタクと彼氏というほぼ両立不可能な地位を擬似的に両立する方法が擬似彼氏である。

彼氏を名乗り始めてコミュニティに波が立たないか。 普通に考えたら、あくまで「普通に」の話だが、本気で彼氏だと思い込んでいるわけがない。 ネタとして周りも受け入れてくれるだろう。

 

 

ここまでの話は擬似彼氏の話である。

本気で自分を彼氏だと思い込む行為は危険なので辞めよう。
 

 

まぼろしでもウソでもいいじゃない!

ああ、初めての幸せ

−筋肉少女帯「レティクル座の花園」より

 

まぼろしでもウソでもいいと思う。 別に非難されたって馬鹿にされたっていいと思う。 きっと擬似彼氏になることで一番正しく楽しめるのはあなただからでも。

でも本気で自分を彼氏だと思い込む行為は危険なので辞めよう。

 

このコラム8000字あるらしい。 なんで大学の2000字のレポートは書けないんだろう。

 - アイドルヲタクの生態