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グローバルもいいけど、ちゃんと探せば日本もまだまだ面白いと思うよ

堕落した人が堕落論の感想を書くとこうなる

   


坂口安吾の堕落論という本がある。端的に言って名著である。
先日ちょっとその本について話すことがあった。

堕落論。タイトルからは人間失格的な暗さがあるが中身はそんな暗くない。

生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。

坂口安吾「堕落論」より 

この一節に描かれる人間観においては決して堕落を悲観しない。まぁ多分好感も持っていないと思う。

坂口安吾が亡くなったのは1955年だから堕落論は青空文庫でも読める。
文庫本で20ページに満たないし、語調があまり古臭くなくて読みやすいので、読んでない人は是非読んで欲しい。  
 


別に堕落論を論じようなどという高尚なことは言わない。

発端は知人と「コンテンツは売れると腐る」という話をしていたところに遡る。

コンテンツが腐る理由は様々だろうけど、僕は疲弊と迎合が理由だと思う。特に迎合。

迎合は厄介である。
工夫と挑戦によって成立した「売れる法則」を信じてしまう。しかし売上を出さなければどうしようもないからしょうがないのだ。少なくとも経営判断としては正しい。
しかし売れる法則に支配されれば後は大同小異のための工夫と挑戦のみしかない。
コンテンツの本質は変わらず、表面上をああしてみたりこうしてみたりの繰り返しになる。しかもそのたびにバカな消費者が両手叩いて喜ぶ。表面上成功しているような錯覚に陥る。
だからコンテンツは迎合によって腐る。

その迎合の話で、僕が坂口安吾の「不良少年とキリスト」の話を出した。
「不良少年とキリスト」には大衆に迎合して絶望した太宰治の話が出てくる。近年だとニルバーナのカート・コバーンもそうだろう。
とりあえず僕はここを引き合いに出した。

元々大した話をしていたわけではない。
売れたコンテンツが腐るのはここ10年くらいを見てても明らかなことである。
腐らないのはジャニーズだけ、腐らずに死んだのはビジュアルノベルだけだ。
コンテンツが腐るのはいつものこと。
で、話は坂口安吾から彼の代表作の堕落論の話になった。話題としては坂口安吾の方が新鮮だからだ。

そこで僕は「ガチで堕落した奴に堕落論を読ませて自身を正当化する堕落感想文を書かせたい。そしてそれを集めたら多分面白い」と言った。
平たく言えば「堕落した人が堕落論の感想を書くとこうなる」といったところだろう。
知人は「お前はやっぱり性格が悪い」と言う。まぁ確かに性格の悪いことを言ったなぁと思う。別にその知人に性格の悪さを隠す必要はないのでいいのだが。

この堕落論感想文の本質にあるものは非常に下品である。要は嘲笑なのだ。
嘲笑に限らず、僕のモノの楽しみ方の多くは下品である。
堕落論感想文は、ローマのコロセウムで奴隷の格闘を眺めていたローマ市民のような下品さがある。これも「あぁ奴隷は大変だなぁ。」という奴隷と自分の地位を比較する嘲笑だ。
逆に言えば2000年以上も「嘲笑」はエンターテイメントの最前線を構成する要素だったのだ。悲劇とか喜劇とかそれらに並ぶ。芸術性がないだけで。

なお現在はネットによって嘲笑文化はより前面に押し出されている。
匿名になれば人は人を叩く。叩くことで何故か自分が上がったような錯覚に陥る。2ちゃんねるに生き続ける娯楽である。2ちゃんねる使ったことないから知らないけど。

堕落した奴、それ自体が自分の地位を感情的に満足させる材料なのだ。エンターテイメントとしての基盤は成立している。
エンターテイメントがエンターテイメントである時、それは人を満足させなければならない。暇つぶしでも感動でも憧れでも良い。そしてその方法の一つとして嘲笑による擬似的満足があるのだ。

そして表面的に読めば堕落論は堕落を肯定する。
「堕落」という文字に引っ張られれば、彼が本当に堕落している場合、これを自分への正当化に用いる。
そして政治が悪いだの、社会に生きる人は生きてないだの言うのかもしれない。 挙句、みんなも俺みたいに堕落すべきだ!などと100%自己正当化に走ったら最高だ。
「いや、坂口安吾はそんなことを言いたいわけじゃないだろw」とツッコミを入れたくなる。
ここに嘲笑のエンターテイメント性が宿る。大家族が頑張るテレビ番組の「あぁ頑張ってるなぁ」といった感じのモラルポルノがある。

さらにここには第二のエンターテイメント性がある。「本来はこうであるはず」という期待だ。期待と言うとすごく前進的な感じだが、ニュアンスとしては予想される答えみたいな意味である。
お笑いというのはお題に対してボケる。ボケの言ってることは常識あるいは文脈上視聴者の期待を裏切る。この予想してない斜め上のボケが笑いを誘う。期待に対する裏切りがコミカルだと人は笑うのだ。
そしてツッコミが常識的な分野からツッコミを入れる。視聴者の期待を代弁する。一旦裏切られて笑うしかない常識が戻る。ここでもう一度自分の常識が戻る。そして再度笑う。
坂口安吾は堕落したバカを救いたいわけではない。そこを取り違えた堕落者の自己正当化は、お笑いで言えばボケである。堕落者が正当化を真剣にすればするほどそのボケは迫真のものとなる。そして読者が心のなかでツッコミを入れる。
堕落論感想文は二段のエンターテイメント性を備えていると自負している。

自分で書いてやはり下品だと思う。
でもこの「堕落した人が堕落論の感想を書くとこうなる」はエンターテイメントの在り方の一つとしては論理的根拠を持っている。
嘲笑と期待の裏切り。きっと面白い。理論上面白くなりうる。

この面白さは分かる人は分かるだろう。そんなあなたも性格が悪い。

分からない人は、正しい。
「人を見下して笑うなんてそんな精神がエンターテイメントを腐らせるのだ。疲弊だの迎合とか言ってコンテンツを批判する前に自分の精神を見直すべきだ。」
その通りである。
僕の言ってることは倫理的には正しいとは言えない。

しかし倫理観ってなんだろうか。
社会通念上培われてきたものだろう。きっとそれは「とりあえず今は」美しいのだろう。美徳だろう。
だがそれは堕落論の中に出てくる武士道と何が違うのか。

 

「堕落した人が堕落論の感想文を書くとこうなる」の面白さがわからない人、
つまり彼は「堕落していない」のだ。

 

「堕落した人が堕落論の感想を書くとこうなる」その1
執筆者:J

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