ヲタクやめたい.com

グローバルもいいけど、ちゃんと探せば日本もまだまだ面白いと思うよ

僕の幻想郷

   


僕はもう、ネタでも煽りでもパフォーマンスでもなく、ヲタクではない。

確かにこの前、頼まれてメロンブックスに買い物に行ったついでに東方のアレンジCDを買った。買ってしまった。でもヲタクではない

ヲタクじゃない人はメロンブックスで東方のアレンジCDなんて買わないだろwwwとツッコミを入れたくなるかもしれない。でもヲタクではない。
なぜならメロンブックスで東方のアレンジCDを買うことは誰だってできるからだ。それを目当てに行ったならまだしも、頼まれごとのついでについ買ってしまっただけ。全然ヲタクではない

なおその時買ったCDであるが、

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SYNC.ART’S – U.N.REAL
http://syncarts.jp/sp/sacd5037

僕は東方厨時代からSYNC ART’Sが好きだからつい買ってしまった。とは言え買うのはソラとトキと二色のチョウ以来である。 理由は地霊殿以降の東方BGMを知らないからだ。

セプテットのアレンジが好き。疾走感あるセプテットアレンジは基本的に総じて好き。

そしてもう一枚買ってしまった。

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豆屋 – 幻天想起
http://mycd16.tumblr.com/

このサークルについてはよく知らない。でも秘封倶楽部が好きだったしジャケットが個人的に好きだったから買ってしまった。
東方のピアノアレンジなんて聴くの久々だったけど、めっちゃアレンジされてて素直に感動。結構「◯◯アレンジ」って音をそれっぽくして原曲弾いてみたっていうのが多いんだけど、このアルバムは原曲のどの部分かわからないようなアレンジがされてて、だけど時に来る印象的な部分でこの部分か!ってなるような感じ。東方の衝動買いで珍しく満足できた
全体的にすごく柔らかくて優しい(ちょっと哀愁ある)感じになってるのに、ハルトマンとかところどころ怪しげな雰囲気を残してるのすごく良すぎた。

 

こちらは中身を見ずに買ってしまったので、僕の持っていない音源のアレンジだった。

だから本家の方の、鳥船遺跡と伊弉諾物質も買ってしまった。
これは東方だから買ったんじゃなくて、純粋にZUNさんの楽曲が好きだし、何より原曲知らずにアレンジするのはありえないからである。言い訳がましいが言い訳ではない。

確かに僕は東方のアレンジCDを2枚買い、流れで本家のCDを2枚買った。しかしそんなことは誰だってできる。この程度で東方のヲタクとは言えない。
pixivを徘徊するわけでも、何時間もゲームをプレイするわけでも、意味もなくスペルカードを暗誦できるよう努力したりしない。 もはや言い訳すらもできない行動をして初めて「ヲタク」なのだ。ちなみに東方厨時代の僕に山手線ゲームのお題で「スペカの名前」で勝てる人はいなかったように思える。それくらい自身があった。ハードやルナはクリアなんてクリアはできなかったがスペカは完全に暗記していた。そんな山手線ゲームをする相手がいなかったから意味はなかったのだが。

そんなわけで別段東方東方する日々ではなく、買ったCDを聴いて「やっぱり同人感あるなぁいいなぁ。うーん、例大祭行こうかなぁ。」なんて思う程度。

博麗神社秋季例大祭
http://reitaisai.com/arts2/

 

今の東方事情は全くわからないが、東方の話をしようと思う。


まず僕が言いたいのは、東方は二次元の可能性を示した作品だということだ。
作品というより、東方ブームで二次元の可能性が顕著に示されたという方が正しいかもしれない。
まぁ表現の細かい違いなんてどうでもいいじゃないか。

 

例えばアイドルの良さを語る時を、ここでは僕が一時はまっていたBELLRING少女ハート(ベルハー)で考えよう。
・曲(実際今でも曲は大好きである)
・メンバー(僕はみずほ推しであった)
・下手さ (ギャップとしてすごく味がある。サブカルっぽいが)
・現場の面白さ

などなど挙がる。
しかしこれらの要素をいくつ列挙しようとも全てが現実の(公式の)ベルハーの集合の一つでしかない。
これがアイドルの、現実である。それゆえに明確な崇拝対象として残るのだ。逆にアニメの場合はなんだかんだ言って「存在しない」ということが忠誠心を緩ませる。現実体験を与えない崇拝は限界がある。ましてやこれほど選択肢のある時代なのだから尚更である。

さて東方がいかに二次元の可能性を示したか、である。
いきなりであるが、僕は東方のキャラクターで好きなのは射命丸である。ここから説明したいと思う。

1,誤認

東方は描く人によってキャラクターの細かいビジュアルが違う。
射命丸は鴉天狗という設定だが、羽があったりなかったり、頭に載ってるトキンの大きさ、特に差が出るのは脚である。
くるぶしくらいまでの靴下だったりハイソックスだったり、それも白かったり黒かったり、ニーソックスだったり、黒タイツだったり様々である。
靴も天狗っぽいやつ(名前知らない)だったりローファーだったり、赤かったり茶色だったり、様々である。
僕の好きな射命丸ビジュアルは黒タイツである。伊東ライフ先生の描く射命丸は最高

しかし公式の射命丸絵で黒タイツのものはなかったはずである(地霊殿までなら)

先ほどのベルハーで考えよう。
僕がベルハーで推していたのは朝倉みずほである。ベルハーの羽のついたセーラー服のような衣装が公式の衣装である。もちろん私服でも構わない。どちらにせよ「朝倉みずほ」である。
何が言いたいかというと、僕が「朝倉みずほ」を見る時、それは必ずBELLRING少女ハート(公式)の存在を介さなければならない。 あらゆる「朝倉みずほ」は公式であり、「非公式の朝倉みずほ」は存在しない。正確には非公式である(ベルハーでない)ならば「朝倉みずほ」ではないのだ。
仮に誰かが「朝倉みずほ」を絵で描いたとしよう。しかしそれは 「朝倉みずほを描いた絵」であり「朝倉みずほ」ではない。
「朝倉みずほ」という実在を認識して僕は推すのだ。どのドルヲタでもそうだろう。そしてその実在は一人しかありえないため、その他の非公式は全て「朝倉みずほではない」という状態になる。この状態(朝倉みずほか否か)は必ず無意識化で判断される。似ている人を誤認する可能性はあるがそれは認識の上では「朝倉みずほ」であるから結局論点は変わらない。そして似ている人を「似ている人」と僕が認識した瞬間、その人は「朝倉みずほ」ではなくなる。誤認が解けて、それまで「朝倉みずほ」だと思っていた人を否定する。
これが現実における崇拝を強める理由であり、逆に現実の限界なのだ。歌が上手い「朝倉みずほ」は現状存在しない。僕たちは唯一の実在「朝倉みずほ」しか認識できない

ここでいう「朝倉みずほ」は認識上公式の実在を指している。
以下「(キャラ名)」は認識上正当なものとして表現する。

射命丸の話に戻そう。
僕の大好きな黒タイツの射命丸は公式のビジュアルではない。公式で黒タイツの射命丸が地霊殿以降出てきた可能性はあるが、地霊殿までしか知らない僕には「黒タイツの射命丸」を公式として認識することはできない。(地霊殿までに黒タイツの射命丸が出てきていた場合、それは僕の誤認となるため結局論点は変わらず、僕は公式として認識できないという結論は変わらない。)
では伊東ライフ先生の描く、黒タイツで鴉天狗のキャラクターは一体何なのか。答えは「射命丸」である。
先ほどの「朝倉みずほを描いた絵」と仕組みは同じはずだが結論に違いがある。僕は伊東ライフ先生の絵を見ながら二次創作だと認識しつつもそれを「射命丸」と判断する。

別の例にしよう。誰か絵の上手い人が射命丸を描いたとする。ちなみに公式の絵は上手いとは言えない。この上手い射命丸は僕の認識上どうなるか。やっぱり「射命丸」だ。
歌が上手いと「朝倉みずほ」ではないのは公式(実在)の「朝倉みずほ」が歌が現状下手だからである。この結論の違いが二次元の可能性なのだ。

現象的には伊東ライフ先生の描く射命丸(の二次創作絵)を、僕は二次創作と知りながら「射命丸」と誤認する。しかし、「朝倉みずほ」の二次創作絵やそっくりさんをわかっていながら「朝倉みずほ」と誤認することはない。
誤認。社会では最も危険な過失の一つだ。しかしそれが二次元においては認識上正当化する仕組みとして成立する。どんな絵師が描いた射命丸(当然ある程度の判断基準はある)も僕は「射命丸」と誤認する。あくまで誤認だ。なぜなら公式の「射命丸」は黒タイツではないし、淫乱かどうかはわからない。それでも伊東ライフ先生の黒タイツで淫乱な射命丸は「射命丸」なのだ。公式じゃないとわかっている。わかっていても「射命丸」として認識できてしまう。誤認最高!

これがビジュアル、視覚認識における二次元の可能性である。
同人のないジャンルでは「公式」しかないため誤認は起こりえず、逆に東方では誤認だらけなのだ。

何故二次元は誤認が起こるのかを一応書こう。
恐らく無意識化で「実在しない」という前提が二次元においては働くからだと僕は思う。
現実においては明確に違うものは違う。実在は一つしかない。「それ/それじゃない」の二択しかありえない。「それじゃない」瞬間に「それ」の実在としては否定される。
逆に二次元はそもそも「それ」が未確定である。と言うより「それ」自体がないのだ。 ないことを僕たちは無意識のうちに認識する。では今目の前にある「それっぽい絵」は何なのか。「それ」は存在しない。「それじゃない」とは言い切れない。

あとは「それっぽい絵」を「それ」と思い込むかである。ここは各個人の問題だろう。僕は結構思い込む。

 

 

2, ロマン

東方の同人誌は非常に多い。しかし東方の同人の特徴として「エロ同人の割合が少ない」点が挙げられる。

何故エロが少ないかというと、元々の設定がガバガバだからである。
東方におけるキャラクターは能力とモチーフになる設定(幽霊とか吸血鬼とか)と住処程度くらいしか挙げられない。だから⑨(バカ)という公式設定は多いに反響を呼んだ。それくらい東方のキャラ設定(性格や特徴)はガバガバなのだ。

東方に出てくるキャラクターがどのようなキャラクター(性格や言動)かはゲーム中の数行の会話から想像するしかない。例えば「霊夢が貧乏」という設定は度々出てくる「賽銭が入らない」という旨のセリフから飛躍して作られた二次的なものである。
妹紅と輝夜がどれくらい戦っているかも、ガチガチのバトルを描く人から犬猿の仲レベルから言葉合戦レベルまで様々。ちなみに公式では「殺しあう」という表現を使っていた気がするが、そもそも二人は公式設定上不老不死である。多分お互いにそれを知っているので、殺し合いに無意味だと気付き結局は「不仲」レベルで妥協するしかない、となったと同人作家が想像するのは公式設定を裏切らない。
私見で恐縮だが、輝夜の妹紅の設定は東方上最も秀逸だと思う。かぐや姫のストーリーから着想を得た設定だが、それがオリジナルとして単体でも成り立っている。表面上の設定だけでも十分楽しめるが、かぐや姫に絡めた成り行きを踏まえるとさらに深みが増すので、是非ともググって調べてほしい。

話が逸れたが、東方はかなり設定がガバガバなのだ。前述の霊夢や輝夜・妹紅といった各キャラ設定すら想像の余地が余りある。

ここで同人誌が「想像の余地を埋める」機能を持つものとして考えたい。同人誌というとエロと結びつきやすいが、「エロ⊂想像の余地」(エロは想像の余地の一部)と考えればよい。そもそもR18コンテンツのエロ同人は多くない。つまり元々R18である場合、想像の余地にエロはない。エロがすでに提供されているのだから別にそこにこだわる必要はないのだ。
R18作品に比べ、全年齢対象の作品のエロ同人が多いのはそこに理由がある。 普通の版権作品の場合はしっかりと設定が練られているため、想像の余地に自由が多いのはエロになる(需要もある)。
「想像の余地」というとわかりにくいが、「ロマン」と考えてもらいたい。エロ同人はロマンなのだ

・東方は設定がガバガバ
・同人誌はロマン(想像の余地)の描写

この2点より、東方はロマン(想像の余地)あふれるコンテンツだと言える。つまりエロじゃなくてもガバガバ設定の穴をロマンで埋められる。
輝夜と妹紅が殺し合いの末に恋心を抱いたっていいじゃないか。自分が幻想郷に迷い込んで可愛い女の子と出会うでもいいじゃないか。これだとエロ感しかないな。他にも幻想郷の日常は、あのキャラのこの部分の設定はetc…。
設定がガバガバ、故に東方はロマンあふれるコンテンツなのだ(二度目)

これは東方の可能性であり、二次元の可能性ではないのでは?そう思う人もいるだろう。
確かに東方は同人誌の役割が顕著に発揮される作品である。だからといって他の作品の同人誌が機能していないとはならない。
東方の果たした役割は「同人誌=エロ」という固定観念からの解放である。元からエロ以外の同人誌は多かっただろうが、東方は非エロ同人誌の地位を押し上げたのは間違いないだろう。
同人誌を作る活動を「想像の余地を埋める活動」と認識する。その余地の広さは作品によってまちまちだが今はとりあえずそう認識しよう。すると同人誌の役割は「性欲の発散」から「作品の編纂」へと昇華する。同人誌間で矛盾のある編纂が行われるだろう。そこは読む人が自由に選択できる。アリマリでもマリアリでもパチュマリでもマリパチュでもいいのだ。編纂された併存不可な作品内事実は各人が好きに選択し、それぞれの作品が作られる。読み手にとっての同人誌は想像を創造する材料として機能する。
実在の人物に想像の余地はない。あるのは事実かifだけであり、ifとして空想することはできてもやっぱりそれは空想でしかない。ただし不明部分のifは二次元の編纂よりも強烈たりうる。起こりえたifは何かしら現実味を持つというのが理由である。
前述の妹紅と輝夜の話はZUNさんによるかぐや姫のifである。しかしそれ以上に小栗虫太郎の黒死館殺人事件のトスカナ大公妃ビアンカと天正遣欧少年使節伊東マンショの不義の子は僅かにでもリアルがある以上、より強烈なifとして映る(僕には、の話だが)。

 

僕の幻想郷

東方において僕は2つのことを学んだ。

・二次元においては公式と違うことを認識しながら、それを(想像上の)実在として「誤認」できる。
→現実において誤認を認識した場合、誤認した対象は正でなくなる。
・同人誌は作品世界を編纂する活動である。そしてそれら編纂活動の正否は各個人が選択できる。
→現実における正否は事実によって証明される。証明されないものはifとして扱われ、信憑性の高さで判断されてしまう。 

そしてこれら2点の特徴は東方に顕著に現れただけで、二次元全てに応用されうるものである。
東方においてこれらが顕著に現れる、つまり僕は最も好ましいビジュアルを僕自身の公式として「誤認」し、最も好ましい設定を選定し僕自身の公式設定として「編纂」できる

つまりこれは「僕の幻想郷」と言うべき痛々しいもの、いや、「僕だけの幻想郷」なのだ。

そしてこの特徴こそが二次元の可能性なのだ。現実では行えない機能である。
ラブコメを疑似恋愛を用いるのは二次元の可能性ではない。二次元は満たされない欲求のはけ口ではない。というより疑似恋愛はアイドルでも風俗でも叶う

 

東方厨だった7、8年前。地霊殿から時は止まっているけれども「僕だけの幻想郷」が残っている。そしてふらっと東方の作品を見た時にその幻想郷は一種のノスタルジーのような感覚を与え、僕は東方アレンジCDを買ってしまったわけだ

ここまで「同人誌が〜キャラビジュアルが〜」と言っておきながらアレンジCDかよ!と思うかもしれない。
これには確固たる理由がある。僕がここまで延々と語り続けた二次元の可能性、好みのキャラビジュアルをわざわざ誤認したり作品の編纂をすること、は確かに素晴らしいことだ。現実では成し得ず、作品を高尚なものにするだろう。そう、二次元を好む「ヲタクとして」素晴らしいことだ。だから僕は同人誌を買わない。買う必要がない。そういうことだ。
どういうことかわからない人はこの記事の最初の一行に戻るといい。

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