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「優勝」してしまうヲタク達

      2016/09/10


ぽきたw 魔剤ンゴ!?
ありえん良さみが深いw
二郎からのセイクで優勝せえへん?
そり!そりすぎてソリになったw
や、漏れのモタクと化したことのNASA
そりでゎ、無限に練りをしまつ ぽやしみ〜

これはちょっと前に流行ったテンプレである。決して呪文ではない。
いちいち意味を書くほど大切なものではないが一応念のため日本語訳(意訳)を書くと

(今)起きた。マジで!?
すげぇ良い。
二郎(食って)から酒(飲ん)で優勝しない?
それ!それなんですよ!(強調)
いや、拙者ヲタクなどではござらん(なったこともござらん)ので。
それでは、永久に寝ますね、おやすみ。

これくらいの意味合い。
全体を通してのストーリーはない。

要は「ヲタクっぽい俺達」を暗号化したようなものである。
ここで僕は「優勝」という言葉に惹かれた。「優勝」という言葉はヲタクの現在・未来を鮮明に表現する言葉なのではないだろうか。


「優勝」という新語

上記構文でも「優勝」部分だけ意訳が難しい。該当する言葉がないのだ。「優勝する」ってなんだよ。冷静に考えてそんな誘い文句ねぇだろ。

「そり!」もまぁ使い勝手いいのだが、「そり!」は明確に「それ」という現代語訳がある。「それ」でも意味を伝えられる。

つまり「そり」に比べて「優勝」というのは代替表現が難しいのだ。
「そり」「ぽきた」「モタク」という1文字変換系、「魔剤」「練りをしまつ」というタイプミス系に比べ、「優勝」はそれ自体が単独で一般に成立する言葉でありながら明らかに一般の「優勝」と意味を隔てる。

ではヲタクの言う「優勝」とは何かと言われると実は曖昧である。つまり「セイク」やら「そり」は一見意味不明だがその意味においては完全に代替表現が存在する。というより一般語をもじっただけで、意味さえ伝えればすぐにでも日常会話に代入することができる。
しかし「優勝って何?」と言われると「優勝すること」と答えるのが一番シンプルである。概念的な表現であるため辞書のような適正な説明が難しいのだ(もちろんヲタクがボキャ貧であることを考慮しても)。

 

「優勝」の起源

僕の観測範囲なのだが、ヲタクが優勝優勝言ってるのを見たのは2014年あたりだったと思う。
知り合いのヲタクが「チキパ優勝!」みたいなことをTwitterで言ってたのを見た記憶がある。
もちろん彼が起源ではないだろうが、少なくともヲタクに通じる言語だと思って彼は使っていたわけだ。

福井県の(ローカル?)アイドル「せのしすたぁ」のまおのTwitterプロフィールにも優勝という言葉が使われていた(2013年には使ってたような記憶がある)
多分僕が見た中で最も古い「優勝」は彼女のTwitterプロフィールだと思う(今は使われていないが)。

まおさん@せのしすたぁ https://twitter.com/seno_mao

さて、せのしすたぁのwikipediaを漁ると「優勝」に関する興味深い記載がある。

 

本人たちは「優勝」という台詞をよく使うが、これは対バンで最も会場を盛り上げられた(=勝った)と思った時に使い始め、ワンマンでも思い通りのライブができた時に使うようになった。

せのしすたぁwikipediaより

バンドやDJで言うところの「より会場を沸かせた方の勝ち」を「優勝」という表現で表していたそうだ。
もちろんこれだけで昨今使われている「優勝」の起源をせのしすたぁに持ってくることは難しい。

しかし「沸いた」という言葉と「優勝」が比較的近い意味を持っているのではないだろうか、という推測はできる。

色々考えた挙句、「チキパ優勝」と言っていた彼は、チキパを賞賛していたのではなく「今回チキパで一番沸いた」という自己完結を表現していたのではないだろうか。
「俺はチキパで一番沸いた。だから今回のライブはチキパが”優勝”だ」と彼が勝手に認定するのだ。人によっては多少意味のズレ(例えば”沸いた”とは限らない)があるだろうが、「個人が勝手に認定する」という過程だけは間違いがないだろう。

 

「萌え」から「推し」、そして「優勝」へ

「優勝」という言葉が、その文字の意味合いからヲタク内で”何となく”使われているというのは興味深い現象である。
似たようなルートを辿るのが「萌え」「推し」である。

一応僕なりの説明を入れると、受動的なのが「萌え」、能動的なのが「推し」である。

例えば好みの可愛いキャラクターがいて、その存在を自分が知覚して感じる興奮とも快楽とも悟りとも言い切れない感情みたいなものが「萌え」である。
説明がグダグダなのはそれだけ新概念ということなのだ。許してほしい。

「推し」はもっと簡単で、「応援してます」ということである。
個人的な思想を入れると、行動ありきである。これは後で詳しく説明するが、とある応援行為の背景にあるのが「推しているから」という理由のためである。「何故(金を払って)握手するのか」の回答が「推しているから」である。「推している」単体では成立し得ない、と僕は言いたい。
あくまで僕が「行動しないヲタクに”推し”を主張する理由がない」と言いたいだけである。ここも個人の解釈ってことで許してほしい。

一旦まとめると、
「萌え」を感じても特に何も起こらない。あくまで受け取った時の感情を表現したものでしかない。
「推す」と行動を起こす。 これは行動の理由付けや意思表示の際に用いられる。

これがヲタク特有の感情や意思の表現である。
そして僕は次なる新たな表現として「優勝」があると思っている。

 

文脈としての「萌え」「推し」

文化背景も考えてこれらの言葉を考えたい。

「萌え」の時代のヲタクはまだ知識重点主義だったと思う。
具体的には「知っている・持っている」が価値を持つ時代だったのだ。
アニメを知っていてキャラを知っていて設定を知っていて声優を知っていてレアなグッズを持っている。ついでにベラベラ語る。これがヲタクのステータスだったと思う。
このように受け取った物の多さが強さだった時代があった。だからこそ受動的な意味合いの「萌え」が栄えたのではないだろうか。

しかしネットが発達してくると知識の価値が暴落する。
ネットで調べれば数十秒で情報が出てくるのだ。長い時間と脳の容積を浪費して知識を貯めこむ価値がない。今や当然となったストリーミングである。wikipediaストリーミング。
実質ネット上に知識はあるし、みんな同じようにアクセスできるからヲタクの強さの尺度がよくわからなくなる
すると強さの尺度としてわかりやすいのは「全通」とか「最前」 とか目に見える行動である。全通はさておき、最前0ズレはこの世にたった一人しかいない崇高なものである。強さの尺度としてはこれ以上にない。
という、「行動重視」にヲタクの価値観がシフトした。故に言葉としてもこの時代としては「萌え」より「推し」の方が文化背景に即している気がする。

さて、ヲタクが文化背景と共に新概念を生み出しているとしたら「優勝」は何を示しているのだろうか。

 

特性としての「萌え」「推し」「優勝」

「優勝」の持つ特性としてはその独立性である。
「萌え」がある種のフェティシズム集団に共有される感覚であり、「推し」が一個人の下に集まる応援感情であるのに対して、「優勝」が括る集団やコミュニティは存在しない。
もっと言えば完全なる個人対コンテンツの概念なのだ。個人が自身の感情だけをソースに、そのイベントやライブの一時点を代表して「優勝」を”認定する”。

”認定”に同意するのは完全にその個人である。 完全に個人内で完結できるのだ。この点で「萌え」や「推し」と完全に性質を異にする。

※もちろん居酒屋とかで「あれ優勝だよな?」という共有はあるけど、それは「優勝」自体が共有を必要とした概念である説明にならない。何故なら「あれ優勝だよな?」と聞いた時点で彼の中では「優勝」しているからである。

 

「萌え」は共有するための感情表現である。
ある物・場面において感じる言語化出来ない感情を「萌え」と表現したのだ。これは「ある物・場面における萌え」はその萌えを理解する万人にとって「ある物・場面における萌え」なのだ。「萌え」とはちょっと違うニュアンスを持つものに「シコい」「バブみ」があるが構造的には萌えと同様、理解する人間間では異論なくその感情を共有する

「推し」になると「萌え」より選択的になる。
「萌え」が共有のための言語であるのに比べ、「推し」は選択を宣言する言語である。
構造としては「ある人」を受けて<応援の感情>を得ることである。「萌え」の場合は< >の感情が言語化できないため生まれた。
しかし「推し」は対象を人に限定し、そこから得る感情を応援に限定する。
現実的に可愛い女の子は全て応援したいのだが、前述のように「行動の表明」として「推す」のである。要は「誰を応援するか」を表明するのだ。こういった意味で選択的であるといえる。 具体的に言うと、現実的には全ての子と握手したいが財布や時間の関係上優先順位を付ける時の基準が「推し」である。だから「推し」には行動を伴う。
「推し」は感情の共有を必要としない。頂点にいる「推される対象」だけ認識上共有するのみである。例えば、何故推すのかは十人十色である。仕組みとしては仏教の宗派に近い。頂点だけ共有してあとはバラバラの思想で動いている。
外部的に類型を作りやすいのは「推し」である。その応援行動から「◯◯推し」という集団を用意に認識できる。しかし仏教と同様、僕達が勝手にそう類型するが類型の中身では感情や思想が共有されていないパターンがほとんどなので、彼らを全て同じ人間として扱うのは危険である。
「優勝」というのは共有という概念を取り去った表現である。
前述したように、個人が勝手に「優勝」を認定して完結するからだ。
感情を完全に共有する「萌え」、少なくとも頂点のみ共有する「推し」を説明したが、「優勝」は他者と何一つ共有しない。
前章を引きずるのであれば、ここから見える文化背景はコミュニティ(何かを共有する集団)不要であろう。

 

「優勝」してしまうヲタク達

岡田斗司夫が「オタクはすでに死んでいる」と言ったのが2008年。
しかしこれは先見の明がありすぎたと言っても過言ではない。彼がこの言葉を言った時点では「死に向かっている」程度が普通の人にできた認識だろう。

「オタクはすでに死んでいる」をさっと説明すると、「オタク」という民族の崩壊を嘆いたものである。鉄ヲタもアニヲタもミリヲタも「ヲタク」という民族意識(所属意識のようなもの)を共有していた。
「一般社会から白い目で見られようとも自分の嗜好を愛する集団」としての民族である。2008年の段階でこの民族の崩壊を「ヲタクの市民権獲得(一般社会へのカウンター性の崩壊)」でなく「ヲタクの個人化」で説明したのは慧眼としか言いようがない。

「ヲタクの個人化」とはまさに「優勝」という言葉の性質が示している。つまり「優勝」という言語は8年前に岡田斗司夫が言いたかった「オタクの死」の象徴的表現ではないだろうか。

「萌え」(感情)「推し」(集団の頂点)と、だんだん他者との共有範囲を捨ててきたヲタク達。 2016年現在、ヲタクは「優勝」によって完全な自己完結を得てしまった。
というより自己完結しなければならなくなったのだ。他者と感情や対象を共有せず、ただ自分の感情だけをソースに「優勝」とする。もう民族でもコミュニティでも信仰団体でもない。ただコンテンツを受けて他者との共有を要せず「優勝」して「俺が楽しかった」を決める個人の集合体。それが今のヲタクである。

 

と言ってもヲタクが集団を失うことはないだろう。
やっぱり合う人とは合うし、一緒にイベントに行く友達というのは欲しいものである。別に「優勝」するから他者は不要ということにはならない。
大きな民族としてのヲタク、一定の感情を共有するヲタク、応援対象のみを認識上共有するヲタク、そういった過程で共有濃度を薄め、共同の幻想を切り捨てていく傾向を表現したのが「優勝」であるというだけの話である。

 

ヲタク史観

きっとこの先のヲタクはどんどん集団としての規模を縮小する。
ジャンルを隔てても民族性を共有していた時代があったかと思えば、今や「ドルヲタ」では適正な表現と言えない。アイドル評論家としてAKBの話しかしなければ彼はアイドル評論家でなく「48系評論家」でしかない。
(現実としてほとんどのアイドルがAKB的なやり方はできず、スタンスで言えばももクロに近い。)
ましてやその1ユニットの現場にも多くのコミュニティがある。頂点のみを共有して細かい教義が違うのだからしょうがない。
多分この先さらに分化するだろう。「自分が好きなもの」を追いかけるのに集団の教義やら人間関係やらは邪魔である。

 

「推し」による集団が、偶像崇拝という言葉で以って、宗教と揶揄されるのは珍しくない。まぁ否定しようがなく構造的には宗教である。
「推し」という言葉が宗教だとしたら、何も共有しない「優勝」というのはまさに”自由な個人”を規定する現代社会的な言葉ではないか。何なら岡田斗司夫の言ってた「民族としてのオタク」というのは、グローバルな視点の欠けた単一民族国家日本的な発想ではないか!

しかし一方で人類の歴史によれば、イギリスの哲学者ホッブズが著作「リヴァイアサン」で勝手に自然権を行使する人々を指して「万人の万人に対する闘争」と言っているわけだ。
わかりやすく言うと、「フッフーフワフワやPPPHは良いけどMIXをアイマス現場でやるな」派と「フワフワもPPPHも演者の声に丸かぶりだからむしろMXやイエッタイガーの方が迷惑ではない」派の対立である。
彼らにとってはそれぞれが彼らの「優勝」状態なのだ。「優勝」の性質上、1万人いれば1万通りの「優勝」があってもおかしくない。しかしその「優勝」同士がぶつかる時、「優勝」は共有されないため、順位付けは不可能であり解決不可能な対立が起こる
それは個人の自然状態に対してホッブズが危惧した「万人の万人に対する闘争」と類似している。

似た例)撮り鉄うざい問題。ローアンは犯罪問題。コミケ深夜待機列問題。無銭厨は死ぬべき問題。

どれも「優勝」という概念上は対立してしまう。「優勝」に向かう個人に対して、それを不快に思う人が抑止できない状態を示している。 何故ならそれを不快に思うことの根拠は明確なルールでなく、「その不快によって自分が優勝できない」という感情のみだからである。
※ちなみに、嫌がってる人へのローアンは犯罪だし、コミケの深夜待機は形骸化していると言っても一応ルール違反です。

片方の「優勝」を取れば片方が「優勝」できない。だから片方が片方を押しのける。
現在こういった対立に対して”倫理観”というヤバイ言葉を掲げて収束させようとさせる人々がいるが、歴史を紐解けばシステムで解決していることは明らかである(最低限倫理観という要素に頼ってはいるが)。

となると次に必要なのは国家(法律)であるが、どう考えてもヲタク全般に跨るルール付けは不可能に思える。もちろん統治することは望ましくない。
経済学から引っ張ってきて恐縮だが、個人的には「神の見えざる手」が働いてくれるのが理想的だと思う。ただ「神の見えざる手」が崩壊した歴史から考えるとやっぱり放置状態ではどうにもならないのかもしれない。

現在色んな所で「運営」という存在が目立ち始めている。それがいわゆる国家(法)としての役割を担うのだろうと思う。
では、ヲタクに対する”法”とはどのような形で機能するのだろうか。コミケ深夜待機問題は「優勝」状態に対するルールの敗北である。

 

ヲタクの法

先に結論から書くと、ヲタクを統べることができるものはコンテンツでしかない。
コンテンツに異常な金を払う人々なのだ。ルールや権威で縛れるわけがないし、それで縛れるならすぐに一般社会へ帰化する法律でも立てた方が有意義である

ただし全てのコンテンツがヲタクの法になれるわけではない。
「優勝」させるクオリティを持つコンテンツのみがその力を有するのである。

欅坂に関して詳しく書きたかったが、力を持った運営が出すコンテンツのクオリティは高い。
先日書いた「アイドルMVの見方(palet)」は欅坂のクオリティを示すために書き始めたのが経緯である。普通にディスになっちゃうし、結果的にpaletのMV単体で面白かったから比較はやめたが。

力を持った運営がハイクオリティなコンテンツを投下することは、万人の優勝状態をコントロールする効果的な手段である。
「我々の現場では自分の好きな楽しみ方をできます」という地下アイドルは多いが、それが万人の優勝状態を生む元凶なのだ。万人の優勝状態が上手く働くのは同人レベルの規模までである。
だから地下アイドルで許されていることがアイマス現場で許されないのだ(僕個人としてはどっちが正しいと言うわけではない)。

他人の「優勝」を阻害する勝手な「優勝」は規制しなければならない。
この規制をされてなお「優勝」させる魅力を持つ高クオリティなコンテンツのみが、万人の優勝という微妙なバランス感に耐えうるのだ。

別に同人レベルを否定はしない。あれはあれで自由で楽しい。
しかし「優勝」コンテンツが各ジャンルで覇権を唱える時、もっと言うと「優勝」規制がコンテンツ自身の持つ高度な「優勝」によって正当化される時、”何でもあり”は低俗なものとして映る。
つまりヲタ芸含め自由な楽しみ方による「優勝」と、限られた方法で与えられたコンテンツから得る「優勝」を比較した結果、後者が勝つという圧倒的クオリティである。これこそがヲタクの法として最も機能的に成立する。

これは今まで様々な場所で試みられてきた。
例えば声優現場のヲタ芸禁止とか。しかしヲタ芸を禁止されるならその現場を出て行く、という行動を多くのヲタクが取ったのも事実である。その結果栄えたのが地下アイドルとアニクラだろう。
つまりその現場で与えられるコンテンツのクオリティはヲタ芸の「優勝」に勝てなかったのだ。

端的に言えば、「我慢すれば美味しい餌で最高の”優勝”できるぞ!」が正しい形なのだ。
だから運営は「美味しい餌」を用意することが義務であり、ヲタクは「美味しい餌」を期待して安い「優勝」(=安い餌)を我慢することが義務である。

つまりヲタクは豚。どんどん飼い慣らしていこうな…。

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