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グローバルもいいけど、ちゃんと探せば日本もまだまだ面白いと思うよ

性欲の改造

   


クリスマス。
この粛々とキリストの生誕を祝う日である。

キリスト教と言えば(他の幾つかの宗教もそうだが)、純潔をよしとする。
もちろんそれを破ってきた司祭とか法皇もたくさんいるのだが、建前上はそうである。

ニーチェなんかは生に本来備わっている性を否定するキリスト教をめっちゃ叩いた(小並感)

そんなわけでクリスマス→キリスト教→性ということで一つどうでも良いことを書こうと思う。

少々過激な表現があるので、ギャグをギャグだと理解できない人は読まないほうが良い。


はじめに

実在というのは非常に難しい。特に自分自身の実在となると答えはないような気がする。
ヘーゲルとかのように観念的に捉える人もいれば、ヘーゲルをめっちゃ叩いて「俺は俺だよ!(ドイツ観念論はクソ!)」と言い切ったニーチェのような人もいる。

自分という実在がどのように存在しているかは一回さておこう。
実在の正体が何であれ、性欲は種として基本的に存在する。

恐らくだが、性欲というのは種の存続のために存在している。要は子孫を作り人類(種)を絶やさないための装置じゃないだろうか。
なので人間は本能から性欲を弾くことができない。
理性でどうこうしてきてはいるが本能的には性欲を抱えながら生きざるを得ない。これはもう諦めるしかないのだ。

しかし性欲の根源が自分自身の要求ではなく、種としての命令だと解するならば、性欲に支配される時、自分の体は種の命令に支配されていると言えるだろう。何故なら性欲は自分がそう欲するからではなく、もっと大きな何かに命じられてそう感ずるからである。
ましてや「種として子孫を残すことが使命だよ、J君」などと言われる時には憤りすら覚える。うるせぇ俺の勝手だよ。
別にその人がそう思う事自体は否定しない。ただ”種の操り人形になる”ことに僕個人が反発を覚えるのだ。

性欲、つまりは種の命令が要求するところは正しい子孫の継続である。
巨大なる種の命令、これに抗いさらにはそれを自分の道具とした人々がいる。ヲタクだ。

彼らは性欲をただの性欲でなく、オリジナルにアレンジし、改造し、自分自身の支配下に置く。
これこそ「真に実在的である」と僕は思う。何故なら種の命令とは人類を4000年継続させてきた巨大な力なのだ。その巨大な力を単なる自己の快楽の道具に落とし込む。それは4000年の歴史に対する冒涜であり、種としての新しい在り方ではないかと思う。

 

実存的性欲

ここ10年くらいで、4000年間で発見されてきた何倍もの性癖が発見されている。
例えば同人誌では恒例(?)のボテ腹(妊娠している女性)。はっきり言ってボテ腹に欲情するのは理解に苦しむ(褒め言葉)

普通に考えればボテ腹は生殖不可能の証である。だから女性のくびれというのは魅力的なのだ。
しかしボテ腹に興奮するやつというのは一定数いて、毎回ボテ腹を描くサークルもある。
ボテ腹に欲情する者たち、彼らは「種の命令を超越した存在」と言わなければならない。その性癖においては”完全なる実在である”といえるだろう。
彼らがどのようにして自分の霊にあるボテ腹信仰を得たのかはわからない。
その時を想像するに、彼らは天啓のようなものを受けたのではないだろうか。

種としての命令、社会規範、通常の恋愛に勤しむ周りの人達…そういった”自分以外”に一切流されることなく、自分の霊の震えをボテ腹に見出したその瞬間、彼は「完全なる実在の一部としての性癖」を理解したに等しい
あらゆる価値観に毒されない無添加の純度100%の性癖、それは「自分はこうである」の一部を明確に表すものである。
果たして今の世の中に「自分はこうである」の一部でも理解している人間がどれほどいるだろうか。流されないことが実在の証ではない。実感し理解し信じることが実感の証である。

そして客観的には彼は性欲を改造したのだ。
種の命令が「子孫を残せ」と囁くのに対して、すでに子孫を残す手前の(二次元の)妊娠したキャラに欲情する。これは種の命令に対する完全なる謀反である。
「子孫を残す」が第一義である種の命令はそんな無意味なものには欲情しないようにセットされているはずだ。それが前述のくびれの話である。
これを性欲の改造と言わずに何と言うのだろう。
彼は種の命令を超越したのだ。そして超越にとどまらず、自分にとってのみ最も適した形に改造したのだ。
彼の、彼による、彼のためだけの性癖。それは種の命令を超越し、改造し、自分自身と全く誤りのない、実存的性欲となったのである。

ボテ腹に限らず、ペド、SM、NTR(一部)、ヤク漬け、リョナ、およそ奇特な性癖は全て実存的であり、彼が現実の実行を伴わない限りは最も純真たる気付きである。

観察者

ソクラテスは肉体的な性行為を不純なものとし、魂での性行為(多分人間的な尊敬的なもの)を美とした。
その結果、彼は男色家となった。でも化粧とかして見た目を飾っていたことを考えると彼は本質的に同性愛者なのかもしれない。

現代においては同性愛も結構認められている。
同性愛も種の命令からすれば「超越」であり、実存的性欲である。
つまるところ「子孫を残す」という命令に逆らえば実存的性欲なのだ。ただし単なる避妊は形式的に命令に逆らっているだけで、本質的に最中の彼らは種の乗り物であるため実存的性欲とは言えない。
しかしやはりソクラテスに言わせればそれは間違いなのだろう。肉体的な性行為を求めた場合だが。

もちろんヲタク界にも同性愛的コンテンツはある。
しかし実存的性欲の最先端集団・ヲタクは種の命令を根本から乗り越える。
BLとか百合に興奮するヲタクを考えて欲しい。キャラクターに自分を投影しているヲタクがどれほどいるだろうか。(いるにはいるだろうが)
つまり彼らは観察者なのである。彼らは行為そのものを超越し、行為のために与えられた性欲を自在に操っている。すでに自分が手を下すまでもなく、その状況によって自分の快楽を実感するのだ。

これらの観察者において特徴的なのはその無限性であろう。自身を行為者にする場合、現実との齟齬が発生する。
例えば上述のボテ腹信仰の際、現実においてその限界を迎える。
(僕の感覚で言えば)現実に妊婦と性行為を行うことは倫理的にどうかと思う。多分社会的にあまり許されない。ここが彼の信仰の限界である。彼は種の命令を改造したが、しかしその実現は多大なる困難を伴うのだ。だから彼は紙や画面にしか実存を満たせない。
恐らくそれは究極の忍耐である。自分の実存を立脚する性癖が現実に許されないという矛盾。彼の葛藤は想像を絶する!
しかしこの究極の忍耐がより一層彼の実存を明確にする。暗闇であればあるほど一筋の光がはっきりと映るように。
そしてこの理性的忍耐を理解しない人々による浅薄な結論づけが「ヲタク=犯罪予備軍」である。

話が逸れたので戻そう。
実在的性欲は種の命令を徹底的に道具化することによって成立する。
BLや百合を愛する性癖は、何者かによって命令された受け身のものでなく、完全なる道具としての性質を持つ。
限定する条件も何もなく、ただ加点要素しかない。彼らが求めるものは加点の限界、つまり完璧なるシチュエーションのみである。
しかもそれを自分が現実に用意する必要もなく、ただ待つでもなく、あらゆる材料を組み合わせていつでもどこでも作り上げることができる。
これが観察者達の持つ無限性である。そこには一切の不確定要素が排除され、純粋に自分の求めるものだけが存在する。

性欲に繋がるかはわからないが、カプ厨なんかもこの部類だろう。
あとは触手というジャンルもここに入る。輪姦物とかも。(陵辱物は楽しみ方次第でこちらになる…?)

繰り返しになるが、彼らの特徴は種の命令を徹底的に道具化するところにある。
人類の発展は道具の発展でもある。
最初は殴ったり引っ掻いたりしていた猿は次第に石や棒を使うようになり、やがて刃物を作り出し、弓矢で遠くから攻め、引き金一つで人を殺め、今やボタン一つで町一つ滅ぼせるようになった。
武器の歴史は褒められるものであるかはわからないが、進化の過程はいかに自分の負担や危険を減らすことにある。すでに人間は戦場に行くことなく他者を攻撃できる。
観察者達も、種の命令という道具を徹底的に進化させた存在である。 現実の制約なく、他者の介入なく、完全なる快楽を接種できるのだ。

伊能忠敬が日本中を歩き回って日本の形を知ったが、大空を飛ぶ鳥はもっと早く手軽に日本の形を知ることができる。
しかも伊能忠敬はその目で全体を見たわけではないため、彼の測量図も”比較的正確”に留まる。比べ、鳥はその全体を一瞬にして把握する。
観察者とはそのような鳥のようなものである。
他の人々が現実という制約の中でやっと達成できる快楽、自分の一部を(往々にして多くは種の命令として自動的に行っているので気付かないことすら多い)、彼らは6000フィートもの高さから見下ろして一切の障害なく高純度に接種するのだ。

 

冒険者

性癖から少し離れてアイドルヲタクについて考えてみる。
一体彼は何故アイドルを追っかけるのか。
誰もが、恐らくは彼自身も理解する通り、彼の行動は無価値である。

思うに彼の行動が無価値であればあるほど、これまでに述べてきた実存的性欲に近いものがあるのではないか。

彼は冒険者であると言える。それも危険地帯に敢えて踏み出すような冒険者である。
観察者たちは種の命令を道具化し、完全な対象とすることで自身の進化とした。
ではこのような冒険者的なヲタクはどうだろうか。

まず彼らの存在は微妙なところである。
何故なら握手の先には人肌の温もりがあり、その先には種の命令が待ち構えているのだ。ともすれば種の命令に支配されているとも言えそうである。

彼らが最も褒め称えられるべきは、究極の地点で撤退するその勇気である。
その先に待ち構えている種の命令。どうしても発展してしまう恋愛感情。彼らはその直前で撤退する。この撤退行為こそが彼の行為を最も社会的に無意味な行為にしているのである。
金を払うのはそれに見合ったリターンを求めるからである。男女が手をつなぐ、その行為に金銭が発生しているのであれば普通の人はリターンに見合わないと言うだろう。だから無意味なのだ(しかも大抵の場合ワンチャンもない)。

しかし彼らが撤退すること、それは種の命令に対する抗いなのである。
その先には種の命令があることを知って、ギリギリの時点まで近づく。そして撤退する。彼が使った金は風俗に行けば種の命令を何度も達成する額に達する。
つまり種の命令よりも、ギリギリの撤退を選ぶ勇気を持つのである。

一方でやはり彼らの存在は危うい。
例えば何故そんな金を費やすのか。彼はその子を応援しているからである
彼女の成功、笑顔、そういったもののために自己を溶かす。種の命令、社会の目線、そういったものを一切跳ね返してきた屈強な彼の精神は、彼女の応援という概念に溶ける。
他のあらゆる力を跳ね返す頑強さと、彼女の存在を以ってしか自身を確立できない脆弱さの二面性が実在においては危ういと言えるだろう。

僕はこの状態にあるヲタクについては進化の可能性を見出す。

例えば和田敬太というイベンター(イベントによくいるヲタク)がいる。最近は「当たるまでやんないとガチャじゃない」などデレステ方面でも有名だが、やっぱり彼は声優イベントの象徴的存在だろう。

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やはり彼からは明確な意志を感じる。他のあらゆる力を跳ね返す頑強さはもちろんのことだが、彼からは「イベントがなければ自分ではなくなる」という危うさを感じない。
僕が思うに和田さんは現場系ヲタクの頑強さと脆弱さの対立を自己内部で統一した存在なのではないかと思う。
つまり、「和田敬太だからイベントに行くのか」「イベントに行くから和田敬太なのか」の実存問題を果てまで突き詰めた結果が彼なのだ。この卵鶏問題をこのように解決するのだ。

「和田敬太だからイベントに行く」かつ「イベントに行くから和田敬太である」と。

自身が決定する意志(頑強さ)と、イベントによって決定される意志(脆弱さ)が一体となっている。もはやどちらが先に存在しているのでなく、どちらもが同時に存在しているのだ。
実存が故にイベントに行き、イベントに行ったが故に実存を確認する。これが無限に繰り返され無限に実存が強化される。
最初はきっとイベントに行くことで実感していた実存が、何年も現場に行き続けたことで熟練のものとなり、イベントの結果としての実存が、実存の結果としてのイベントとなる。

梵我一如というのはインドの宗教の言葉だが、この世の真理(梵)と個人(我)が一つになることである。

ある意味、梵我一如の如き領域だと思う。
この領域に至ることによって、社会的に無意味と看做されるヲタクイベントに自分自身の実存の目的と結果を見出すのだ。
受動的に引き寄せられるようで、能動的に向かっているようで。 これが一体となるところに活路があるのではないかと思う。
現場系のヲタクの真髄は、登山家ジョージ・マロリーの格言「そこに山があるから」(実は誤植)である。

僕はその大いなる冒険に耐えられなかった一人である。

 

高潔にして自由

このような実存的性欲の理解者達に対して、種の乗り物たちはこういうだろう。「空想の産物に過ぎない」と。「非合理的で無価値だ」と。
僕は乗り物たちに憐れみを覚える。現実と何者かの命令と社会規範に限定されて自分が何に真の快楽を得るかわからない人達にはそう見えるのだろう。
真に実在的であることは本来他者には理解し得ないことなのだ。完全なる個人というものが存在するとしたら、それは全てがオリジナルであり、他の何物にも影響されていない純粋なる一個人である。そんな個人は誰に理解されるだろうか。つまり真の実在は他者から理解されないものなのだ。

クリスマスだから恋人とデート、などというものは本当に意志が存在するのだろうか。明確な意志を持っているカップルもいるだろうけど。
しかし大半は「クリスマスだから」という謎の理由に依っている。デートするのも告白するのもクリスマスである必要は一切ない。彼らはクリスマス幻想の乗り物なのだ。彼らのクリスマスデートは彼らの意志によって発生したのではなく、クリスマス幻想によって発生している。
それならばまだ見ぬ冬コミ新刊への、新たなる実存的性欲の発見に心躍らせ、営々と準備をするヲタクたちの方がよっぽど哲学的だと思える。彼らには意志がある。自分を満たし、未だ気づかぬ自己の発見に邁進する、高潔で「自由な個人」としての意志が。

決して僻みではない。否定の入る余地のない事実である。
その証拠として僕はクリスマスデートを否定するわけではない。
それが自分の意志であり、意図があり、信念があるならば、そのクリスマスデートは高潔で自由な意志の産物である。
そのような高邁なクリスマスデートを送っているカップルがあるとするならば、僕は彼らにこう伝えるだろう。

「君たちのクリスマスデートは同人誌を探し求めるヲタクくらい実存的だね」

断っておくが、クリスマスデートを否定するわけではない。そこに意志があるかの問題。「価値があるかないか」で言えばコミケの準備をするヲタクより「価値がある」だろう。
しかしそれは一方的な視点でしかないことは明らかであり、真の自分自身を考える時、他の何者かが作った価値に何の意味があるだろう。

 

価値観の超越

先ほども書いたようにここ10年で新たに生み出された性癖は、人類4000年の歴史で生み出された数を遥かに凌駕する。
僕が知っているものもごく一部に過ぎない。
きっともっと深く、暗く、最も純度の高い深淵に自分を見つけた、未だ語られぬ実存者は多くいるだろう。
種の命令の操り人形であれば何も恐れることはない。他の人と自分が同じであることに安心を覚えるだろう。
しかしそれは自由な個人ではない。種の命令に意志をハッキングされコピーされた複製品にすぎないのだ。真の自由な個人とは、自分が何たるかを理解する存在である。
自分の実存を探している最中、彼は絶大な不安と共にいる。誰にも理解されない孤独、究極のマイノリティ、不安の中を突き進む。そしてその深淵の果てに自分を発見するのだ。

ヲタク的であることは実存的であるのではないだろうか。
性癖の発見は自分の発見である。 常識に照らし合わせた時、誰にも理解されないと思われる性癖ほど、最も純度の高い自分の一部である。
だから自分の性癖には肯定的であった方が良い。性癖は否定しようがない。自分自身なのだ。

私事だが、先日職場の女性が風邪を引いていた。
風邪がツラいのかどうかはわからないが、なかなかつらそうな咳をしていた。
その人が、聞き苦しい咳をしていることに関して周りの人に謝ったのである。別に怒られるようなことではないから謝るほどでもないと思うが。
しかし僕個人としては一時腹パンにはまっていたこともあり、女性が苦しそうに咳き込むのはむしろ興奮するところである。
その人が僕に謝った時、「むしろ興奮しましたありがとうございます」と言うべきだったのか、常識的に「お大事に」と言うべきだったのか、どちらが正しかったのかは未だにわからない。
その時、「苦しそうに咳き込む女性に興奮する」が自分の一部であると、否定しようのない明確な自分の一部であると理解した。
これこそが自分自身の発見である。種の命令でもなく、社会の常識や流行でもなく、誰かの教えでもなく、僕が僕の経験から生み出した自分自身の一部分なのだ
しかも腹パンがなくても「女性が苦しく咳き込んでいる」だけで良い。これは全く新しい発見である。

もちろんだが僕は人に腹パンをしたことはない。文化系なので暴力は使わない。
自分自身を発見することは重要だが、自分自身のために他者に被害を加えることは最も低俗な行いの一つである。

また別に異常性癖だけが全てではない。
ノーマルな人間であっても、それが自分の最奥を覗いた結果であればそれは実存的と言えるだろう。
どちらにせよ、クリスマスやリア充に嫉妬するのはまだ自分が種の命令に支配されている証である。 達観すれば、むしろクリスマスにこそ自分の実存を発見する手掛かりを見出せるのである。

今回は性欲の話から性癖方面にフォーカスを当てている。
しかし、ここまでの話で分かる通り、ヲタクというのは価値を超越した地点に究極を置く概念である
この記事の主張はそこにある。性癖はその主張の一部分でしかない。
種の命令や社会の常識を自己の内部で否定し、自分自身が心から肯定する何かに向かう時、社会の要求する合理性や価値に一体何の価値があるのだろうか。
社会の価値観にのみ徹底する者は「社会の価値観」でしかない。決して「彼自身」にならない。
一方で社会の価値観を全く認知しない者はただの非常識である。
大切なのは、価値観を一度理解し、それを超えることである。価値観の超越こそがヲタクの本質である。
「犯罪予備軍」とは価値観の超越に対する賞賛にすら聞こえる。もちろん犯罪を犯さなければ、だが。

最後に西田幾多郎の哲学書「善の研究」より一節を引用してこの謎の記事を締めたいと思う。
当然だが西田幾多郎はヲタクについて語っているわけではないが、実在的なヲタクであればこの意味がまるでヲタクに向けて書かれたもののように思えるだろう。

たとい行為そのものは大なる人性の要求から見てなんらの価値なきものであっても、
その行為が真にその人の天性より出でたる自然の行為であった時には一種の美感を惹く

ー西田幾多郎「善の研究」より

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