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グローバルもいいけど、ちゃんと探せば日本もまだまだ面白いと思うよ

「(でも)それがいい」の議論

   


気付けば3ヶ月以上ブログを更新しないということはよくあること(猛省)

 

最近は特に書くことも見つからず、何というかブログタイトルはすでに名前負け。
ヲタクというのは気付いたらやめているものである。

仮に僕がヲタクをやめたとしよう。
すると色んな議論が湧いてくる。

今回はその中の一つについて考えたことをメモ的にまとめたいと思う。
「(でも)それがいい」という感覚である。


思えば、僕の半生は「(でも)それがいい」を追い求め、そしてそれに振り回されてきた人生だったと思う。
僕がこれまでハマってきて、そして棄ててきたことの全てについて、一体何を「いい」と思ったのであったのだろうか。
今となってはよくわからないものばかりであるが、しかしその時においては確かに「それがいい」と思ったのである。 そして僕はやはり、その時々において「(でも)それがいい」と言ってきた。

ただ純粋に「いい」のではない。
「(でも)それがいい」という逆説から入る捻くれた表現。それこそが僕の半生を覆い尽くし、支配してきた何かである。

 

「(でも)それがいい」

僕がこの言葉を最も意識していたのはBELLRING少女ハート(ベルハー)を追っかけていた時だ。

BELLRING少女ハート:http://www.brgh.tokyo/

(みずほがやめちゃったのは悲しみがある)

ちょっとだけベルハーについて説明させて欲しい。
ベルハーというアイドルは異質なアイドルだったと思う。
まず他のアイドルと比べて、外見だけだとそんなに可愛くない。本当に「そのへんの女の子」レベルである。
王道アイドルというのは「普通の子よりは全然可愛い」くらいのビジュアルがあった方がいい。それは偶像の価値を担保する一部になるからである。

しかし、それでもなお、ベルハーはそのへんのアイドルより偶像としての力があったと思う。
偶像を偶像たらしめるものはビジュアルだけではないのだ。ビジュアルは取っ掛かりには重要だが、全てではない。
ベルハーの魅力を事細かに説明しようとすると別の記事になるのでここでは割愛する。

そうなると知り合いのヲタクから「ベルハーの良さがわからん」とか言われる。
当然である。彼が推してるアイドルに比べるとさすがに可愛いとは言いにくい。
曲の良さとかライブの良さとか彼女たちの内面というのは初見・未見の人に伝えにくい。
しかし宗教や偶像というのは往々にしてそういうものではないだろうか。信者になるとその魅力を熱烈に信奉する。それでいいのだ。

話を戻そう。彼が「ベルハーの良さがわからん」と言う。その後に続く言葉はこうだ。
「可愛くないし、歌は下手だし、踊りも下手だし、どこに魅力があるのか」。
彼の言っている言葉は何一つ間違っていない。他のアイドルと比べれば、失礼ながら、そうなる。

その時僕はほぼ必ずこう言ったと思う。
「(でも)それがいい」と。

 

この経験はヲタク同士の会話でなくても成立するだろう。
ヲタクが何かにハマっている時、その魅力をわからない人からその作品等の魅力を問われるとする。
「それほどそのアニメにハマる理由は一体何?何が魅力なの?
その時何と説明するだろうか。

自分は誰かに説明されなくてもそれの良さを理解した。相手は理解できていない。
その時、言葉での説明がどれほど役に立つだろうか。

もしかしたらこのヲタクは頑張って言葉で説明しようとするかもしれない。
「この主人公のキャラクターが女性的に非常に魅力のあるキャラクターでね」
しかし相手は理解しないだろう。いや、理解を示してくれることはあるかもしれない。しかし多くの場合は徒労に終わる。
何故ならそれを見て理解できない人が、その作品を拙い言葉に置き換えて説明したところで理解できるとは考え難いからである。

このような徒労と挫折の経験を経て、彼は最後にこう言うのである。
「(でも)それがいい」

僕はこの言葉こそヲタクの性質そのものを表しているものと思わざるを得ない。

 

ヲタクと宗教

よくヲタクコンテンツを宗教に例えて説明する言説がある。
「(でも)それがいい」の性質を交えつつ、宗教家(信者)とヲタクの差異を考えてみよう。

まずここまで説明してきた「(でも)それがいい」という言葉。
この言葉には諦めがある。説明を放棄し、「君にはわからないだろうけど俺にはわかる」という境界線を引く態度である。
相手が理解することをきっぱりと諦める。むしろその言葉の論調には「理解できなくて当然である」という、自己卑下に似たニュアンスがある。

一方、熱心な宗教家というものは他者に布教をするものである。
何故それがいいのかを熱心に説明し、時には武力を用いてでも強制的に帰依させようとする。
そこまでして彼はその宗教や教義を心の底から「良い」と思っているのである。それを信仰することにある種の当然さを抱いているのである。
その時その宗教家は「 (でも)それがいい」という表現を使うだろうか。僕が思うに彼はそんなことを言わない。
彼が言うのはきっとこうだ。「(普遍的に)それはいい(だから君も信仰すべきだ)」

宗教への信仰を当然であると信じる宗教家の姿勢と、ヲタクの態度は決定的に異なる。
宗教家のそれは絶対的な肯定感に満ちている。自身が信じているものは正しく、これを信じていない人に伝えることを使命とするような確信がある。その絶対的な肯定感と確信は人類の歴史に様々な足跡を残している。

一方でヲタクの信奉は真逆の性質を持つ。
彼は彼の中で、それを信奉することの間違いを認めている。常識的に考えればそんなものにハマるのはおかしい、大の大人が恥ずかしい趣味を持っている。しかし自分はそれを愛さずにはいられないのだ、という捻れが存在している
彼は自分を正当であると思わない。故に他者にその信奉を強いることはない。
(でも)という逆説はその心理状態を表しているのではないか。「自分の信奉は間違っている。でも…」という、常識とは違った価値観を持ってしまった自分への”後ろめたさのようなもの”がある
その”後ろめたさのようなもの” は彼を説明の放棄へと進ませる。これを勧めることは人を過たせる。自分がエラーであることを自認しているからこそ、他者にエラーを強いない。

仮に自分の価値観を正しいと信じて疑わないヲタクがいたとする。例えば40歳を越えてなお児童向けアニメに傾倒する人がそうであったとする。
その時彼は自分をヲタクだと言うだろうか?
恐らく彼は自分の傾倒しているアニメを教養だとか嗜みだとか、つまるところ「人として、社会的に全くおかしくないこと」としてそのアニメを認識しているはずである。

つまりヲタクを自認することは、自身がエラーであることへの”後ろめたさのようなもの”が前提となって成立する。

自分が正当であるかエラーであるかの認識。宗教とヲタクの最大の違いはそこにある。
自分の行いの正しさを自認し、真心からそれを他者に勧める宗教。
一方自分の価値観の間違いを自認し、他者へ勧めることを放棄するヲタク。

自己認識の上では決定的に違う、むしろ真逆の性質を持つのである。

 

”後ろめたさのようなもの” 

先ほど使った常識と自分の嗜好の捻れ、”後ろめたさのようなもの”にこそヲタクの本質があると思う。

「アニメ観てるから俺ヲタクでーすwwwwwww」とか安易に言っちゃう人(ネタ発現を除く)に対する怒りというか、違和感を感じるのはこの”後ろめたさのようなもの”が原因であろう。
自分の嗜好への後ろめたさとヲタクへの自認がある人であれば、そのような安直な宣言は羞恥の極みに思われる。言い過ぎかもしれないが自分の犯した罪を軽快に告白する人を見るような気分に陥るのだ。

自分の嗜好は一般的ではない。この認識がヲタク自認を形成する。何度も言うが、これがなければ自分をヲタクだと思うことは不可能である。
故に自分の嗜好の魅力や理由を説明する際、「(でも)」 という言い訳に似た態度をとる

 

一般的であるものへの反射

自分の嗜好が一般的でないこと。この理解がヲタク自認を形成する。

これを逆に言えば、ヲタクを自認するには正当な判断力を要する
「自分が一般的ではない」と認識するには、「一般的であるもの」に対する理解がなければならない。 「一般的であるもの」への理解なく「一般的ではないもの」を考えることは人間には不可能であると思える。

「一般的であるもの」が具体的に何であるかを定義することに意味はない。各人がそれぞれ「一般的であるもの」を考え、自分がそこからズレている嗜好を持っていることを認識し、その嗜好への態度が一定の形を持っていればヲタクを自認する。
”その嗜好への態度”という表現を使ったが、これは議論の余地があるものの集合の一種だと考えればここでは事足りる。「一般的でない嗜好を持つ人∋ヲタク」くらいの意味である。

ここで「一般的であるもの」というのはヲタクを照らし出す光、映し出す鏡のようなものとして機能する。
恒星の光を反射して初めて惑星や衛星が光るように、「一般的であるもの」に反射して映し出されて初めて「ヲタク」がわかるのである

例えばこの世に人類が一人であった時、彼は自分をヲタクだと思うことができない。この世の人間の価値観は彼一人の価値観になる。彼は絶対に一般的である(一人しかいないのに一般的という表現はちょっと変だが)。
たった一人の彼がアニメにハマろうと、それが人類全体の一般となる。その時”ヲタク”という考えは意味を為さず、考えることすらできないだろう。
つまり「ヲタク」という概念は、前提としてヲタクを映し出す一般的である他者の存在を要する

 

(でも)が指し示すもの

ヲタクが「(でも)それがいい」と言い訳に似た態度を取る時、この「(でも)」は一体何に対して言い訳をするのであろうか。

先ほどの宗教家とヲタクの対比で考えてみたい。
宗教家は自分の信仰や信奉するものに対して積極的に自身を見つける。
「これは素晴らしい。誰もが信じるべきだ。」 そしてそれを熱烈に信じる自分を見つける。そこで見つける自分に対して一切の疑いはない。何故なら彼は心からその信仰を正しいものだと信じ、一般的であるべきとさえ思っているのだから。
信仰対象に溶けてなくなっているのではない。確固たる一人としてそれを信じている。そう彼が思う時、それこそがアイデンティティではないだろうか。

一方ヲタクの態度にはある種の申し訳なさ、”後ろめたさのようなもの”がある。
「自分の嗜好は普通ではない。”でも”自分はそれを愛さずにいられない。」
この”でも”こそが、「(でも)それがいい」の(でも)に対応するのではないだろうか。

確かにヲタクのその考えは歪んでおり捻くれている。普通ではないこと、一般的ではないことを認識しながらもそれを愛さずにはいられない。
そこには「敢えて」という決意がある。自分自身で間違っていると思うが、それでもそれを愛することを選択するという強い意志がある。

思うに先ほどの「一般的であるもの」とは自身の作り出したイメージにすぎない。彼は自分の作り出したイメージとそれに反する自分の嗜好の間で勝手に葛藤し、そして遂に嗜好への愛を選択する。
宗教家のように何かもが正しいと思える中での選択ではないが、ヲタクはその「敢えて」に自分の意志を見出す。この意志は宗教家と同様にアイデンティティと言ってもよいのではないかと僕は思う。
確かに経路や構造には大きな違いがあるが、強い意志に自分を見出すという点では同じ点に行き着く。

前回性欲の改造という記事で以下のように書いた。

 

大切なのは、価値観を一度理解し、それを超えることである。価値観の超越こそがヲタクの本質である。

 

この記事で言いたかったことは上記の文章に如実に示されている。
NTRが好きでもボテ腹が好きでも、好きになってしまったということは紛れもなく自分自身の意志なのである。
自分が作り出した一般的でないというイメージに屈さずに選びぬくこと。「(でも)それがいい」の(でも)はその選択の意志、アイデンティティに向かって叫ばれているのだ。 

だからヲタクが自身の嗜好について「(でも)それがいい」と説明する時、それは自身の選択を信じるために用いられる。
(でも)を言い訳と僕は書いたが、本人の認識ではそれは言い訳ではない。一般的であるものと自分の嗜好の捻れの中で自分自身を見出すための決意なのである。決定的な捻れの中で困惑しながらも敢えて選択する強い意志が(でも)というニュアンスに現れるのだ。
むしろ「(でも)それがいい」というニュアンスで説明しない或いはそう思わない時、彼はヲタクを自認していないとすら言えるだろう。

もちろん達観してしまえば捻れに対する困惑などなくなる。一周すればまた「俺ヲタクwwwwwwww」とヘラヘラと言い出すだろう。しかしアイデンティティとはそういうものではないだろうか。

正直ヲタク趣味のほぼ全ては金も時間も人生も浪費する。
自分の中の常識のイメージがそれを「無駄である」と嘲笑する。しかしその捻れの中で愛さずにおれず、非合理や歪みを承知の上で選び取ったものこそ本物なのではないだろうか。

 

犯罪予備軍と白旗

理想と現実のギャップに挫折する話はそのへんに溢れかえるほどある。
現実の大いなる力に挫折する話など誰もが一つは持っているだろう。
自分の内面での葛藤とは言え、ヲタクはある種、理想と現実のギャップ・歪みの中で理想を選択した者である。

そしてその歪みの前提には、一般的であるものへの認識が常にある。その意味でヲタクとは本来、常識を見つめ続ける存在なのである。
しかし彼らの大半は常識的ではない。何故なら常識(一般的)ではない側を敢えて選択した奇人だからである。

なるほど、そりゃ犯罪予備軍の誹りも免れませんわ。

僕はこの誹りに対してヲタクは白旗を掲げるしかないと思う。
論理的には完全に犯罪予備軍だし、敢えて一般的じゃない方を選ぶやつなんて普通に考えて「理解不能」なのだ。

だがこの誹りは全くの意味を持たない。
何故ならこの誹りと自分の嗜好の歪みの中であっても、彼らはやはり自分の嗜好を選び続けるだろう。そういう思考集団なのだ。恐らく「ヲタクをやめる」ことですら嗜好の選択へと収束しているのだろう。
そういう思考集団というのはつまり、「自身の嗜好を選択する」ことに傾いた人間達であるということである。

つまり常識側のあらゆる誹りは彼らの中で”いつもの”歪みとして選択肢の一つとして並べられ、その中で彼らの嗜好が選ばれる。
誹りを受けて反省しヲタク(趣味)をやめる ことすらも、その選択へと傾いただけにすぎない。
どのような誹りも煽りも嫌味も結果的には”彼らの選択”へと収束してしまう

だからヲタクは自分の正当性(ヲタクは経済を回している!とかいう思い込み)を叫ぶ必要はない。というかヲタクはそもそも正しくないからヲタクなのだ。正しかったら「ヲタク」などという蔑称は存在しない。
多数派であるとか一般的であるとかいうものを凌駕しているからこそのヲタクである。むしろみんながNTR好きだったら面白くないではないか。
「自分が」「敢えて」選択したからこそ価値があるのだ。構造的には誹られれば誹られるほどアイデンティティは強固になる。

 

最後に

この長々しいメモもそろそろ締めたいと思う。
本記事はヲタク「(でも)それがいい」という感覚について、(でも)・「敢えて」こそに選択の意志があるという仮説である。

Twitterとかで散見されるヲタク自虐ネタは秀逸だと思う(僕がヲタクだからかもしれない)。
「ヲタク」という語は、「おたくは〜」と呼び合うSFヲタク達に嫌悪感を示した中森明夫が彼らの言動を馬鹿にする意味も込めて呼んだのが始まり、らしい。
しかしその嘲笑的呼び名すら彼らの自虐ネタになってしまったという経緯があるらしい。
(ソースwikipediaだからあんまり信じてはいけない)

ヲタクへのどのような攻撃的表現をも自虐ネタへと回収されてしまう。そしてその攻撃的表現は「自分が」と「敢えて」への感覚をより強固にする
攻撃すればするほど彼らのアイデンティティは強度を増すのだ。 どれだけ痛烈に批判しても「そり〜〜〜〜〜〜〜」と言われてヘラヘラとかわされる。
そして攻撃がなくても、彼らは勝手に嗜好への傾倒を行い充足を得る。

なので「◯◯ちゃん最高にバブみある。オギャりたい。」と言うヲタクのヘラヘラした態度の裏にはその(気持ち悪い)選択への強い意志が潜んでいるのだ。
いや、ヘラヘラしているうちは自虐ネタ感があるからまだいい。
彼が「◯◯ちゃん最高にバブみある。オギャりたい。」を真顔で言い始めたら、彼の覚悟はガンギマリの状態であり何人たりとも完全な共感はできないだろう。

 - ヲタクを論じよう