ヲタクやめたい.com

語りえぬものについては、沈黙しなければならない

   


結局のところある評論家が言うのとは違い、ヲタクは死ななかった。
死ぬことなく不在のものとなったのである。
いや、正確にはそもそも存在していなかった。

今まで「ヲタク」と呼ばれていた人は存在する。不在になったのはヲタクという概念なのだ。
すなわち、このブログは「やめる対象」を失ったのである。

 


①差異

ヲタクの概念が不在であることは、「ヲタク」という呼び名が存在する理由を考えるのが早い。

何かを名前で呼ぶとき、それはテレビやパソコンのような一般名詞でよいが、少なくともそれは「それではないもの」との区別のために用いられる。

生物という言葉は無生物との区別に用いられる。
人間という言葉は人間以外の生物との区別に用いられる。
日本人という言葉は日本人以外の人間や民族に対して用いられる。

そのような細分化が続き、最後は固有名詞で区別を行う。固有名詞によってそれ自体が確定する。
ポチという柴犬はポチ以外の柴犬からの区別なのである。ポチという他の柴犬に対しては「私の」「太った」などという補足説明でカバーする。
Jというハンドルネームが多々いても「ヲタクやめたい.comのJ」は恐らくこの世に1人である。
このように名前はその他のものと区別するために用いる。逆に言えば区別する必要のないものに名前はつけない。

つまり名前にはその名前が区別する対象との差異があって初めて成立する
では「ヲタク」という言葉が示した差異の対象は何だったのか。そしてその差異の内容は何だったのか。

一説によるとヲタクという蔑称は、二人称で「おたく」と呼び合う気持ち悪い連中(SFマニアだったらしい)を揶揄した言葉らしい。
この説が正しいとして、それは何から何を切り離したのだろうか。
恐らく切り離す元は一般的な人だろう。一般人が自分の趣味を持つことはさすがに疑問視されない。趣味とその文化が気持ち悪すぎて区別の必要を感じたのだろう。彼らの共通言語「おたく」よりこの蔑称が生まれた。

つまり「俺から見て気持ち悪い」が差異の内容であり、差異の対象は「気持ち悪くない人々」つまり一般人であると考えられる。
この内容と対象には気をつけなければならない。「おたく」であれば一般人との差異であるが、一般人との差異が「おたく」とは限らない。十分条件なのである。近年はこの必要十分条件の理解ができない人々によって「一般人との乖離がある人々がおたく」という主張をする人がいる。「おたく=犯罪予備軍」という安易な決めつけに走ってしまうのだ。
「おたく」は気持ち悪いものなのだ。「気持ち悪い」という差異の内容によって「おたく」は成立した。

SFから始まったヲタクはアニメやアイドルにもテリトリーを伸ばした。言葉の変化に鈍感な人々は彼らをまとめて「ヲタク」という民族と捉え疎外した。疎外された側のヲタク達もその差異を認めた。人間の思考は環境に少なからず依存する。彼らは「自分たちが他人に比べておかしい」ということを自認していたはずだ。
そして「ヲタクである人/ヲタクでない人」という二項対立が生まれた。片方は「もう片方でない」ことを自認する関係だ。

しかし今はどうだろうか。アニメを見ること、アイドルを推すことは趣味の範囲内に収まっている。
今やヲタク趣味自体に危険性があるわけではないことが知られつつある。そういえばゲーム脳という言葉があったがあれも顕著だったように思える。

ヲタク趣味自体は許されつつある。何度も言っているが、ちょっと前はアニメを見ていること自体が気持ち悪がられる時代もあったのだ。今やラブライバーを公言する人がいる。これ自体はいいことだ。
しかしそれは「自分がおかしい」という自認がなくなっていることの証左でもあり、「アニメを見ることはおかしい」という批判も消えつつあることを示す。
「ヲタクである人/ヲタクでない人」の二項対立が消滅する。それはつまり「ヲタク」という言葉の存在意義に大きく関わる。「ヲタク」というワードは一体何と区別されるのか。アニメを見ることは「アニメを見る一般人/アニメを見ない一般人」という行動的区別になってしまった。その行動自体がヲタクを規定できなくなってしまっている。
「○○をする一般人/○○をしない一般人」という区別を重ねてもそれは趣味の範疇であり、言ってしまえば個性の範疇でしかなくなってしまった。
ヲタクを規定する方法がない。秋葉原でフィギュアを漁ることも趣味になる。アイドルと握手するために同じCDを買うことも、声優をおっかけてツアー全通することも、コスプレイヤーを撮影するために高い機材を買うことも、全てが個性に収束されてしまう。

ここ半年でバーチャルYouTuber(以下Vtuber)が出てきた。Vtuberに「すこすこのすこ」(好き)と言っているやつに「Vtuberヲタク」というワードが使われているところを見たことがない。
アニメやアイドルといった既存のジャンルのみが昔の名残で「アニヲタ」「ドルヲタ」と言われるに過ぎない。少し前なら3Dにせよ平面にせよ、そんなキャラクターに「すこすこのすこ」などという気持ち悪いことを言っている人間は即座に一般人としては破門され、ヲタクの烙印を押され、SNSで知り合った迫害されし同士とともにオフ会を開いてオンリーイベントに通う運命だったのだ。

ヲタク自体がその民族性を失ったことはある評論家が随分と昔に指摘したことである。何故なら指摘から10年くらいは普通にヲタクという概念は生きていた。ジャンル間の繋がりがなくなったにすぎない。
しかし今起こっていることはそれとは全く意味が違う。「ヲタク」という言葉自体に意味がなくなっているのである。何かの意味や物・現象を指す言葉ではなくなっているのだ。
当然だが、何かの意味を示さない言葉を使うことはできない。Vtuberヲタクと言われないのは、「Vtuberヲタク」が何と差異を示しているのか認識できなくなっているからである。

別に僕はヲタクという言葉がなくなっても構わないと思う。その言葉が自分の行動や趣味を規定するわけではないのだから。
しかしこのブログが立ち上がってからの4年間で「ヲタク」という言葉はその意義を薄めたように見えないだろうか。薄めさせたのは個性への認識であり、ヲタク趣味への市民権を与える行動だった。
今や「ヲタク」という言葉は反アニメ派やPTAなんかがプロパガンダ的に使う時にしか意味をなさない。つまり、これは皮肉なことだが、親ヲタクであればあるほど「ヲタク」という言葉に意味がなくなり、反ヲタクであればあるほど「ヲタク」という言葉に意味を与えてしまっている。
言い換えれば、ヲタクを擁護しようと思えば思うほど「擁護する対象がない」という状況を作り出し、ヲタクを叩こうとする人にとっては「叩かなければ相手が自然消滅する」という状況なのである。

「ヲタク」という言葉は亡霊である。オカルトのようなもので、それを意識しなければ存在しないと同義の言葉なのである。

 

②亡霊の死体

ヲタクという言葉は存在しないに等しい。

しかし考えてもみてほしい。
同じCDを何枚もカバンに入れたやつが渋谷のクラブで酒を飲みながらDJの流す曲に合わせて踊るだろうか(アニクラ除く)
アニメアイコンが自撮りプリクラアイコンと湘南乃風の良さをリプライし合うだろうか。
合コンで出会ったカップルがデートで地下アイドルのライブに行き家虎を叫ぶだろうか。

なんというか、逆にディストピア小説のような光景である。
果たしてヲタク趣味が個性に併合されることに意味はあるのだろうか。

何も取り柄がないけど美少女に囲まれて好かれるという気持ち悪い妄想が刺さったのだ。
1000円払ってでも30秒話せる気持ち悪い制度がアイドルを一段高い存在に押し上げたのだ。

思えばこのような気持ち悪いクリエイティブが先にあったではないか。二人称を「おたく」で呼び合う気持ち悪さが先に存在し、便宜的に彼らを「おたく」と呼んだのではないか。

ヲタクが不在になったのではない。ヲタクは空想の産物になったのではない。
元々存在しておらず、元々空想の産物だったのではないか。

考えてみれば「ヲタクになりたい」などと思うことはそもそもありえないのだ。気付いたらヲタクと呼ばれていたにすぎない。一般人との差異は後から自認するものだったのだ。
そういった性質のものに対して民族だの犯罪予備軍だのと性質を上塗りする意味がなかった。つまりヲタクという言葉が議論された時点で、議題になった時点で崩壊していたのだ。

ある種の「気持ち悪さの感情」を便宜的に「おたく」と呼んだ経緯が独り歩きし、なぜか民族だの犯罪予備軍といった集団かのように主張した人々がいる。
つまり「ヲタクは是か非か?」という議題は「気持ち悪いのは是か非か?」という話の一部分でしかない。この議論は「気持ち悪い」の定義から始まり、最後は「人それぞれ」という結論に至る無意味な議論である。

ヲタク(人)とは本来的には定義不可能な言葉にカテゴライズされ、気づかぬうちにそのカテゴリーが消滅していたのである。
今までは「ヲタク」という言葉が存在しているかのような幻想があった。しかしその幻想は実質消滅した。残るのは気持ち悪いクリエイティブのみ。それは個性のベールに守られて共感する人の賛同を得る。
そしてある趣味の人が凶悪な犯罪を起こすたびに亡霊の死体が掘り起こされてああだこうだと議論され、結論のないまま再び埋葬される。

 

 

③語りえぬものについては、沈黙しなければならない

ヲタクとは亡霊のような空想の産物であった。
しかしなぜか様々な議論の槍玉に挙がり、まるで存在しているかのように扱われた。
それももう終わり。ヲタクという亡霊的概念は死んだのだ。

亡霊であることも死体であること、ましてや亡霊の死体であることも「やめる」ことはできない。
ヲタクが自身の意義「不在」を達成した今、このブログも自身の意義に気付くのである。「不在をやめること」は存在論的に矛盾している。

そもそもヲタクは生まれてもいない。死んでもいない。自発的になるものでもなければ自発的にやめるものでもない。定義のないものに生まれるだの死ぬだのなるだのやめるだのに意味があるだろうか。愛や善というのも似たようなものではないか。
結局評論家の手のひらで踊っていたにすぎない。

趣味に邁進すれば良い。脊髄に従えば良い。
ヲタクなどという言葉で叩こうがそんなものはなく、自分の趣味を規制することなど(風紀や法律を侵さない限り)不可能である。

オーストリアのウィトゲンシュタインという哲学者がちょうど100年前に執筆した「論理哲学論考」という本がある。
その本の最後の一節を残して終わるとする。

Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.

(語りえぬものについては、沈黙しなければならない)

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